巌谷一六(いわやいちろく)は1834年2月に滋賀県で生まれました。なお、日本近代児童文学の礎を築いた巌谷小波は巌谷一六の三男であることも有名です。
巌谷一六の生家は現在の滋賀県に位置する、水口藩お抱えの医者の一家でもあり、幼い頃に父を失ってからは自身も家業を継ぐため、医術や漢文、書を学んでいきました。この頃から書の分野で優れた才能を発揮していたと言われていますが、20歳からは藩医として尽力しています。
しかし一方で藩政改革にも興味を持ち尊王の考えを深めていくと、やがて30代半ばの頃には明治維新を乗り越え、内閣大書記官や貴族院議員として勤めるようになりました。この間には公文書の清書に携わるなど、書家としても一流の腕を披露しています。その後も1880年に日本を訪ねた、中国湖北省宜都出身の書家・楊守敬に日下部鳴鶴と一緒に学ぶなどして自身の腕を磨いていきました。晩年は日本各地を旅行して多くの書作品を残し、現在でも各地でその石碑を見ることが出来ます。
そして1905年7月、72歳で息を引き取りました。
巌谷一六は楊守敬に六朝を学んでから、一六流と称される、右に下がる独自の書体を編み出しているのが特徴的です。なおその一六流によって大成したとされています。
また、もちろんそのような特徴があるだけでなく、その書は非常に細かく精密ともいわれています。
巖谷一六は中林梧竹や日下部鳴鶴と並んで、明治の三筆と称されています。なお医業を辞めて政治家として勤めている期間も長くありました。
幼い頃から書を習い、公文書の清書を務めるようになった以降も書についての学びと探求に努めた巌谷一六の格言の「書は心霊なり。心をもって書くにあらざれば文字は飛躍せず」は多くの人に知られた言葉のひとつです。
ちなみに巖谷一六の書は数多く残されていますが、偽物も決して珍しくないので気を付けなければなりません。
代表的なもの
『六曲一雙屏風』や『四行書』などあります。
■楊守敬(ようしゅけい)
1839年に生まれた中国人書家であると同時に、金石考証学や地理学にも精通した学者です。
駐日公使でも勤め、日下部鳴鶴や松田雪柯にも教え日本の書道に多大な貢献をしました。
『日本訪書志』や『学書邇言』などが知られています。
■日下部鳴鶴(めいかく)
1838年に滋賀県で生まれた書家です。六朝書道を知るだけでなく、清国にて書学について深く学びました。
鳴鶴流と称される作風で明治書道界を代表する人物であり、木俣曲水や近藤雪竹などの書家を育てています。
■中林梧竹
1827年に佐賀県で生まれた書家です。市河米庵や山内香雪が師匠であり、また日下部鳴鶴と同様2度清国にて学んでいます。
特に1935年に出された『梧竹翁千字文』は、希少な中林梧竹の情報を知るのに重要な本です。