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2021.03.05
骨董品

島村抱月とは【代表作/作品/松井須磨子】

島村抱月(しまむらほうげつ)の生い立ちは?

島村抱月は1871年に島根で生まれました。なお本名は佐々山滝太郎と言います。幼少期から働いていましたが、貧しい中でも母が一念発起し、島村抱月は学校に通学。10代になると家庭を支えるために浜田裁判所にて働くようになりました。

その際に裁判官の島村文耕から能力を高く買われたことで、学費援助を受けることとなり、1890年に東京専門学校文科(現在の早稲田大学)へ入学しています。在学中、小説家としても知られる坪内逍遥からは、シェークスピア劇や歌舞伎について。哲学者の大西操山には西洋哲学史について教わり、その後島村家の養子となると、23歳で同校を主席で卒業しました。

それからは文芸誌『早稲田文学』の出版に携わり、専門学校内では講師として勤務し生計を立てています。

その後、小杉天外や後藤宙外など共に丁酉文社を設立。また雑誌『新著月刊』を発表し、同誌では自身の小説も発表。20代後半になる頃には、後藤宙外や伊原青々園などとで評論集『風雲集』を刊行するなど評論家としての一面も確立しました。

 

やがて1902年、イギリスとドイツへ訪れた際に、現地で数多くの演劇を鑑賞すると、その描写や表現技法に強く感銘を受けることとなります。約3年の間滞在し帰国したのちは、母校である早稲田大学の教授に就任。文芸協会を設立したほか、留学前に発表していた『早稲田大学』誌を再び刊行するなど、積極的に活躍しました。

一方で1913年には芸術座を立ち上げ、翌年にはロシア人小説家・トルストイの小説をもとにした舞台『復活』を上演。特に芸術座メンバーの女優・松井須磨子が歌唱する『カチューシャの唄』は大ヒットとなり、日本、またロシアでも『復活』の舞台は大きな評判を呼んでいます。

劇作家・演出家としても名を広めた島村抱月でしたが、1918年、47歳の若さで息を引き取りました。

 

 

 

島村抱月の活動の特徴は?

島村抱月はこのように苦学生の時代から、1890年の東京専門学校文科への入学を境に、文学について深く学ぶようになった事。またそれだけではなく、ヨーロッパへの留学後は演劇に触れたことで新たな表現方法について考えを深め、小説や劇などの作品も発表した所に特徴があります。

また卒業論文では『審美的意識の性質を論ず』を発表したり、1895年に『西鶴の理想』を発表した事は、師事関係のあった坪内逍遙から高く評価を受け、坪内逍遥の文芸協会にも加わり、海外作品の翻訳や演出もこなしました。

そのほか『早稲田文学』との携わりを辞めている1898年には、読売新聞社会部へと入り主任して活動しています。

 

 

 

島村抱月はどのような部分が評価されているのか?

文学界だけでなく演劇界でも活躍するなど、幅広い活動履歴がある所は、島村抱月が評価される大きな要因です。

また近代劇について広めたのも島村抱月の評価として欠かせません。

 

他の作品

 

1911年に発表した戯曲『運命の丘』。また『抱月全集』(いずれも島根県立図書館が所蔵)

小説『志ろあらし』や『月暈日暈』などのほか、翻訳書も多く発表しています。

 

 

 

各ワード紹介

■坪内逍遥(つぼうちしょうよう)

1859年に生まれ、江戸時代における恐怖や不気味さを煽り、勧善懲悪を描くと言った物語の作り方に真っ向に対峙する小説を提案。

その為に「当世書生気質」を提案し、森鴎外とは「没理想論争」と言う議論を展開します。

また演劇にも詳しく、島村抱月と俳優の育成にも務めました。

 

■芸術座

1913年に松井須磨子を主だったメンバーとして設立された劇団です。

『内部』や『モンナ・バンナ』が初めての発表作品であり、商業と芸術が矛盾する課題に苦しむようになります。

島村抱月や松井須磨子がこの世を去ってからも、劇作家・水谷竹紫と女優・水谷八重子が新たな主だったメンバーとして継続されましたが、水谷竹紫が亡くなった事で活動が終了しました。