山縣有朋は1838年に、山口県で生まれました。なお父の山県有稔は長州藩士で、下級役人でありながらも国学などを学んでいたため、山縣有朋は父から勉学を教わったといわれています。成長すると藩校に通いながら武芸にも励み、20歳の頃には吉田松陰が開く松下村塾に入塾。その後、高杉晋作の立ち上げた奇兵隊に参加し、1863年には司令と立場となって、イギリスやアメリカ、フランス、オランダによる四国連合艦隊の下関砲撃や、1868年に起こった戊辰戦争で活躍しました。
やがて明治新政府が誕生してからはヨーロッパに渡り、軍備増強についての考えを深め翌年に帰国。軍人としての功績から、兵部少輔に就任し、1871年には廃藩置県の施行のため尽力しています。まもなく兵部省の頭に就き、同省の分割後は、陸軍の次官に就任しました。西南戦争では薩摩郡を迎え打ち、そのほか参謀本部の立ち上げや、軍人勅諭の制定にも携わるなど近代的な軍事整備に務めていきます。
50代になると総理大臣に就任し、1894年勃発の日清戦争時期には第一司令官や陸軍元帥としても就任。1898年に第2次内閣を立ち上げました。
以降も1904年の日露戦争で指揮を務めるなど活躍し、1922年、83歳で息を引き取っています。
山縣有朋は軍人として活躍を続け、明治維新以降は近代的な軍備整備に務めていた所に特徴があります。また学問のほか歌、槍術にも優れていたという記述も残されています。
明治政府内では内閣総理大臣となる伊藤博文と並んで強い立場となり、伊藤博文が亡くなってもその影響力は維持し、元老・山県閥として活動しました。
とは言え天皇制軍隊の考えも示した山縣有朋ですが、民衆には不評で1921年の皇太子妃選定問題で失策となり、政治家としての道は絶たれたと言われています。
軍人として強硬派のイメージが付きやすいかもしれませんが、近年は穏健を望んでいた部分が注目されています。
1864年のイギリスやアメリカ、フランスやオランダによる四国連合艦隊の下関砲撃時には、諸外国に強い警戒心を示しながらも、軍拡を提案しながら戦争をしないで済む選択肢を考えていたと言う指摘。それ以降も軍備を整えながら、外交の手段も同時に考えていたという評価もなされています。
またそれらは、情勢が不安定であることを考慮した上での軍備だったようです。
山縣有朋本人も、自身があくまで軍人であることを念頭に置いた「私は一介の武弁にすぎない」と言う言葉を残しています。
関連書
徴兵制関連の『徴兵令並近衛兵編成兵額等伺』(国立公文書館が所蔵)。
同じく参謀本部長や参事院議長を務めた時代の国内についての報告を、ヨーロッパにいた伊藤博文宛にしている報告資料も国立公文書館が所蔵。
また『安田定則宛山縣有朋書翰』などもあります。