山本梅荘は1846年8月に、現在なら愛知県にあたる尾張の半田で生まれました。なお本名は山本駒と言い、実家は足袋で生計をたてています。とは言え、幼少期に書画骨董商を営む山本公平の養子として育つことになり、手伝いをしながらも書画について自主的に学んでいきました。
さらに京都に上京すると京都画壇の中にいながらも日根対山や谷口靄山など、多くの後進を育てた貫名海屋。三谷雪えんから文人画について教わります。なお他には竹本雪斎から書道漢籍について教えを受けました。故郷に帰った後でも努力は怠らずに、今度は文人画の発祥元である中国古画を手本として学びを深めており、1882年には内国絵画共進会において金牌を獲得。1900年には日本美術協会展に『秋景山水』を発表して、宮内省の御用品と言う名誉を頂きました。それから1907年の東京勧業博において『春景山水』が2等賞を獲得。同年の第1回文部省美術展覧会でも『秋景山水』で3等賞となります。
しかしその第1回文部省美術展覧会において、審査内容に疑問が生まれたことがきっかけで立ち上がった、正派同志会の第1回展で審査員を行っています。ですがそれでも文部省美術展覧会とのつながりはなくならず、今度は同展の審査員として大正元年となる1912年に『夏景山水』を発表。審査員としての務めはその後も行っていきました。
そして1921年2月、76歳で息を引き取っています。
山本梅荘の描く南宗水墨画としては、これ以上のものが描ける他の画家は存在しないとさえ言われていました。また、文部省美術展覧会の委員を務めたのは中部地方では初めてですし、様々な名誉を手にしたのが山本梅荘とも言えます。
なお著書として『鴻雪図誌』を残しています。
■代表作含む他の他の作品について
代表作には他に『夏景山水』があり、また文人画で主流となっている題材でもある、松竹梅を現している『歳寒三友の図』があります。
■文人画
明時代の画家の董其昌によって定義付けられた絵画で、職業として画家を行っていない知識人が描いたものを指します。董其昌は技術的なものより、知識を積み上げたことにより生まれた内容の奥深さを重視しており、反対に職業画家が描いたものは院体画とされています。
■文部省美術展覧会
1907年に誕生した日本で初めての政府による美術展覧会で、文展と言う略称を持ちます。
元々は洋画家の黒田清輝がフランスのサロンからヒントを得て提案したのが始まりで、文部省美術展覧会は大正には帝国美術院展覧会(略して「帝展」)に名称を変更。
その後は一旦は文部省美術展覧会の名に戻りながらも、昭和の年には日本美術展覧会(略して「日展」)と名前が変わりました。
■山水画
山や河と言った自然を描いていますが、単なる風景画とは異なり精神的なのものを求められると言われています。また実際のではなく想像した自然が得がれているのも特徴です。
人物画や花鳥画と並び東洋絵画を代表するもので、山水画から水墨を用いた滲みやボカシなどの技法が特色の水墨化が派生として生まれました。ちなみに山水が描かれた水墨画は、水墨山水画と呼ばれています。