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2020.12.10
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山内多門とは【功績/作品/評価/日本画家】

山内多門の生い立ちは?

山内多門(やまうちたもん)18784月に宮崎県都城市で生まれました。10代の頃に同じ宮崎出身で狩野派の画家・中原南渓から学んだ後に、都城尋常小学校に教師として就任。その時期に日本美術院が出す日本美術に感銘を受けたことで、1899年に東京に移ると、円山四条派の代表的人物である川合玉堂から教わります。

また川合玉堂からその才能を注目されたのをきっかけに、翌年の1900年には川合玉堂の師匠でなる狩野派の橋本雅邦に弟子入り。同年には日本美術院の活動に加わりました。作品制作においても、日本美術協会の連合絵画共進会に出品した歴史画『三顧草盧』が初入選を獲得。また1907年に初めて開かれた第一回文展にて『驟雨』が3等賞を受賞するなど、日本画家としての名を広めていきます。

このように活躍を続け、大正時代に突入すると展覧会での受賞経験もあった二葉会にて会頭となりました。40代となる頃には帝展で『天竜四季』が最高賞を獲得し、翌年からは審査員となったほか、晩年には大作『中国西国巡幸鹿児島着御着』を完成させています。以降は体調を崩し、ついに1932年、54歳で息を引き取りました。

 

 

 

山内多門の作品の特徴は?

山内多門は狩野派をベースとした山水画が特に優れていると言われています。正統的な狩野派と言うよりは、山水画の事細やかなタッチを上手く取り入れているのが特徴的なのです。

また山水画の代表的人物でありながら、自由なタッチで描いた雪舟等楊との共通点も多数指摘されています。

 

 

 

山内多門はどのように評価されているのか?

山内多門は中央画壇を代表する人物の一人と言われています。文展や帝展で、共に第一回展に携わると言ったように、政府主催の官展の歴史に関わり、その活躍や独自の作風によって弟子志望者が集まると、その数は100人超にも及びました。

 

代表作

 

活動終盤に描いた明治神宮聖徳記念絵画館の為の壁画『明治五年明治天皇鹿児島御入城の図』

1918年発表の『雨三題』(宮崎県立美術館が所蔵)。『群上十二景』などがあります。

 

 

 

各ワード紹介

■狩野派

日本の絵画史における一大集団で、その始まりは室町時代後半からで、明治初期にかけて活動は続きました。室町幕府のお抱え絵師である狩野正信が祖で、血縁関係をベースに代を繋げて教え徳川幕府御用達になるなどしました。培ってきた技術を真・行・草の様式で教えるなど徹底していたと言われています。

終盤では面白みがないと支持の声が減っていったといわれますが、狩野派画家の山内多門の自由な作風が、その中において人気を集めてきた事を考えると、よほどの評価があったのが伺えます。

 

■川合玉堂

1873年に愛知県にて生まれた近代日本画壇の重鎮です。

幸野楳嶺や橋本雅邦などから教わって、狩野派画家として歩み四季を情緒豊かに表現する作風で支持されました。

官展の場で活躍し、1940年には文化勲章を獲得しています。