小野湖山(おのこざん)は1814年に滋賀県で生まれました。医師の横山玄篤の息子であり、当初は自身も医師となるため学んでいましたが、儒学の方に強い興味を持ち、まもなく儒学者の大岡右仲から経書史書について学ぶようになります。そして10代前半の頃、父と訪れた京都にて文人・頼山陽(らいさんよう)と出会ったのをきっかけに朱子学漢詩について深く学ぶ事を決心しました。
その後、1830年には漢詩人・梁川星巌(やながわせいがん)と出会い、梁川星巌が開く玉池吟社に入門。16歳頃に上京した東京で藤森弘庵や尾藤水竹からも学び、現在の愛知県豊橋市のあたりを治めていた三河吉田藩の儒臣として務めるようになります。以降は藩政にも携わるようになり、小野湖山は優れた儒者として才能をふるっていきました。この間25歳頃からは尊王攘夷の念を厚くし、1858年から起こった安政の大獄の際には、攘夷派としての摘発を恐れた吉田藩が小野湖山を安全のために幽閉した時期もあるほどです。
やがて1860年に尊皇攘夷派の反撃である桜田門外の変が起こったのちは、幽閉から8年を経て、政治舞台にて再び活躍。朝廷にも認められ、幕末から明治維新後にかけても奔走しました。
そして1873年にはそう言った政治の務めを辞め、詩文に集中するようになります。明治政府からの出仕の再要請があっても断って詩壇に留まり、1883年には明治天皇より御硯を授かったことで、自身の書斎を賜硯楼と命名するなど、その才能は広く知られることとなりました。
晩年までこういった生活を続け、1910年、97歳で息を引き取っています。
小野湖山は天皇に対して絶対的な忠誠を誓っていましたが、その事も起因し、前述の通り安政の大獄にて幽閉となりました。
しかし天皇主体となり、政治の一新された明治維新以降は従五位となりました。
また政府の役職を辞めてまで詩作に打ち込み、明治の三詩人のひとりとしても挙げられるようになっています。
小野湖山は三河国吉田藩で勤める前から、江戸詩壇を代表する梁川星巌が開いた玉池吟社の一員となり、漢詩によってその存在感を強めています。
他にも大阪にて優遊吟社を立ち上げたり、大沼枕山や鱸松塘と合わせて明治の三詩人と呼ばれています。
代表作
『湖山詩』や1894年に出した『湖山老後詩』。
『優遊吟社詩』(酒田市立光丘文庫が所蔵)などがあります。
■朱子学
宋学や性理学、道学などとも言います。性格や学問の向上を人へ敬意を払うことで努めるものと言ったもので、中国の南宋が始まりで日本では江戸幕府にて公認の学問と位置付けられました。
■梁川星巌(やながわせいがん)
1789年に岐阜県に生まれた漢詩人です。妻は女流の漢詩人として有名な紅蘭で、梁川星巌は結婚後に岡山や長崎のあたりを旅し、江戸に戻ったところで、小野湖山も入門した玉池吟社を設立しました。
吉田松陰らとも親交があったことから、安政の大獄時には捕縛対象とされますが、その直前で、病が原因となり息を引き取っています。