寺内正毅は1852年に山口県で生まれました。長州藩の下級武士の家に生まれましたが、幼い頃に母方の家の養子となり、大楽源太郎が開く西山塾に通いながら文武に打ち込んだと言われています。
10代になると長州藩内で組織された御楯隊の一員となり、国学や西洋式の銃の操作を習得。1868年に起こった戊辰戦争で初陣を果たし、のちの1871年には陸軍少尉に就任しました。以降も陸軍の一員として養成所に入るなどして腕を磨き、1877年の西南戦争では大隊長を勤めましたが、右手の自由が利かなくなる重傷を負い、以降は指揮よりも後進の育成に努めるようになっています。
30代になると公使館付武官の形で、20代の頃から希望していたフランスへ留学が実現し、帰国後は陸軍士官学校の校長や参謀本部次長などを歴任。1902年には第一次桂内閣の陸軍大臣に就きます。2年後には日本からの宣戦布告で勃発した日露戦争を勝利に導き、やがて陸軍大将を経て、1916年に内閣総理大臣に就任。ビリケン内閣とも称された超然内閣を機能させますが、1918年に米騒動の責任を受けて辞職しました。
そして翌年、1919年に68歳で息を引き取っています。
寺内正毅はこのように軍人として活躍した後、総理大臣にもなり、政治家としても活躍した所に特徴があります。
フランス留学の経験を活かして、陸軍の近代化に務め、また第1次と第2次の桂太郎内閣。第1次の西園寺公望の陸相も勤め上げました。
寺内正毅は明治維新後に大きな力を持っていた長州閥の陸軍にいた事、さらに陸軍軍人・政治家の山縣有朋と強い結び付きもあった事で山縣有朋、政治家・桂太郎に次ぐ長州閥の巨頭とも呼ばれています。
ただし寺内内閣が誕生した際から、当時から浸透していた民主主義とは違う考えを『中央公論』上で提案。政党員を内閣として参加させていない事から、非立憲主義と批判されました。
ちなみにシベリア出兵や軍拡に増税も、国民の意見無視で行ったと言う所も非立憲の評価がなされている一因です。
なお上記の理由に加えて、容姿が似ている事もあってビリケン内閣と呼ばれるようになりました。
このように批判的な見方も強いものの、後述する文化への貢献。漢詩人として桜圃・魯庵の号を持って活動した面も持ち合わせています。
関連書
亡くなる前に文庫設立を提案しました。その為に山口県立大学附属図書館は、寺内正毅が集めた書物をベースとした桜圃寺内文庫を所蔵しています。
他には中央図書館が所蔵の漢詩なども残されています。
■超然内閣
1889年に明治憲法が布告された直後に、黒田清隆首相が提案したものです。政党内閣との考えから反発するものですが、議会や政党の考えに囚われず独自性を強めた政治を行う所に特徴があります。
■米騒動
1918年に当時の富山県から全国に発した騒動で、第一次世界大戦がきっかけで急激に上がった米の値段に反発を起こしたものです。
なお値段の高騰はシベリア出兵や、政治の機能が上手くいかなかった事も理由としてあります。
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