宮本三郎(みやもとさぶろう)
宮本三郎は1905年5月に石川県小松市で生まれました。
15歳で、通学していた小松中学校を途中で辞め、
画家になる為に神戸へ移り住み、
その2年後に川端画学校へと入っています。
そこでは富永勝重や日本洋画界において
代表的存在の藤島武二から絵を教わりました。
その翌年には関東大震災を経験し
1927年の第14回二科展においては初入選となり
そこから結婚や引っ越しを経るまでの間も
二科展に出し続けます。
30代になる頃には新たにパリを生活拠点とし
また周辺の諸外国の美術館をも渡り歩きました。
1942年には既に日本に帰っていた氏は
その技術力の高さから従軍画家となり、
世界各地に赴き戦争の様子を伝えていきます。
なお従軍画家としての代表的作品には、
1943年に芸術院賞を獲得した
『山下、パーシバル両司令官会見図』が代表的です。
やがて戦争終結後となる1945年には
二科会で活躍していた画家仲間と共に第二紀会を結成。
47歳の時には再び世界各地を渡り、
その翌年には多摩美術大学教授として
後進の指導に務めました。
その後、69歳でこの世を去っています。
代表作としては『婦女三容』や『日本の四季』。
活動終盤に描いた『妻と私』や
舞妓、裸婦の連作もあります。
作風
宮本三郎は「写実の奇才」や「色彩の魔術師」
と言う言葉で、称賛されていました。
「写実の奇才」と呼ばれている由縁は
確かなデッサン力があるのが大前提となりますが、
その能力はルノワールやセザンヌの影響を受け継ぐ
また指導歴もある安井曾太郎からも注目され、
同じ従軍画家となった藤田嗣治からは
「素描きでは彼以上の者はいない」と評価されています。
また、非常に優れた色彩感覚も持ち合わせており
その作品は美しい色合いにこだわった
豊かな配色で彩られるため、「色彩の魔術師」
とも称賛されました。
しかし一歩で、その能力故に戦地に赴き
そのくらい情景を作品にも残しています。
「痛ましい悲劇的な前代」を残すと言う趣旨で
『死の家族』と言う作品が生み出されました。
世界各地を歩いた宮本三郎
従軍画家として描いてきた悲しみは
『死の家族』から伺えますが、しかしそれだけではなく
戦後も世界各地を渡り歩いたり、『妻と私』や
舞妓に裸婦の連作と言った活動終盤の作品がある事から
人生を楽しんでいたとも考えられます。
そして宮本三郎の残した作品は、
地域の文化も感じられる
「宮本三郎ふるさと館」の中で見られます。
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