宮之原謙は1898年2月に鹿児島市で生まれます。
最初は建築家を目指していたものの
体調を崩した関係で、20代半ば頃から
二代目・宮川香山に陶芸を学びはじめました。
また日本画においては山水画で有名な
山内多門から学んだり、
品位の高い作品を作り上げた板谷波山からも
陶芸についてレクチャーされています。
1927年にはその板谷波山や宮川香山などがいる
関東の陶芸作家達で組まれた東陶会にも
加わりました。
そのほか帝国美術院展覧会などで活躍し
50代後半には光風会の会員、
8年後の1963年には東陶会の会長となっています。
このように陶工家として地位を強めていますが
さらに陶芸について深く学ぶため
中東や北欧、ネパール、南米などを
旅するなどしました。
本名は半之助と言います。
京都に生まれながらも横浜にて、
明治時代の代表的な作家となった
初代・宮川香山の孫として誕生しました。
1892年には大日本窯業協会会員として
活躍するなどしています。
ちなみに宮之原謙が
板谷波山からも教えを受けたのは、
二代目・宮川香山からの
アドバイスによるものだったといいます。
板谷波山を中心に結成。
関東の中でもただ一つの陶芸集団として、当時は
日本美術展覧会の作家を中心に構成されています。
様々な場所で作品を発表してきましたが
1939年に解散。
しかし現在は復活し、日本美術展覧会でない
作家達も多く在籍しています。
1912年に結成されています。
絵画と工芸部門に分かれ、解散した白馬会の中から
欧州地方やアメリカに何度も出向き
洋画を描いてきた三宅克己、
外光派を代表する洋画家の小林鐘吉などで
結成されました。
なお工芸部は第5回の展示から
京都文化博物館で作品を発表しています。
中国は唐時代から、陶磁器において
非常に高い技術を持っています。
そしてその技術は諸外国間の貿易で
大きな意味をなし得ていました。
陶磁器を運ぶ手段の一つとしては
航路も使われていましたが、
中東地方はその貿易路の中間地点として存在し
そしてこれらの地方で作られた陶磁器も
中国の影響を受けていると指摘されています。
しかしただ影響を受けているだけでなく
その影響を活かして「イズニック陶器」など
独自発展を遂げたものも多く存在します。