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2021.04.15
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室生犀星とは【代表作/詩/小説/俳句】

室生犀星(むろうさいせい/むろおさいせい)の生い立ちは?

室生犀星(本名は照道)は、1889年に石川県で生まれています。私生児として生まれたことから生後、物心の付かない内に他家に預けられ、7歳の時には住職をしていた室生家の養子となりました。この経験はのちの室生犀星の作品に大きく影響し、叙情的な作品作りに繋がったと言われています。

1900年に高等小学校に入るものの、勉学に馴染めなかった事からその2年後に中退。金沢地方裁判所の下働きとして務めるようになると、ここで知り合った上司に俳人がおり、その影響で室生犀星は俳句や文学書に興味を持ち始めました。

それからは「照文」や「殘花」などの号で新聞や雑誌に自作の句や文を投稿するようになり、1906年に『政教新聞』に詩が掲載された際、はじめて「室生犀星」の号を使用しています。翌年には歌人の尾山篤二郎らと北辰詩社を結成し、20代になると上京。一時は帰郷と上京を繰り返すものの、この間に北原白秋から強く影響を受け、彼が活躍した文芸雑誌『スバル』に、室生犀星も作品を投稿し掲載されました。

 

以降、北原白秋が立ち上げている雑誌『朱欒』(ざんぼあ)上で詩が幾度となく掲載され、人魚詩社や感情詩社を設立。また多くの文芸雑誌で詩が発表されたことで、その名を広げていきます。1918年には詩集『愛の詩集』を出版し、翌年からは小説作品も手掛け、初の小説集『性に眼覚める頃』も発表しました。その後も数多くの小説や詩の作品を発表し、関東大震災後は一時金沢に移るものの、作家活動を続けていきます。

 

50代から60代にかけては小説作品『あにいもうと』によって第1回文芸懇話会賞を受賞したほか、日本芸術院会員に任命され、また60代末頃に発表した長編小説『杏っ子』は読売文学賞の受賞作品となりました。この『あにいもうと』と『杏っ子』の2作はのちに映画化されるなど室生犀星の代表作としても知られていきます。晩年も多くの作品を発表し、亡くなる前月にも作品が雑誌に掲載されていましたが、1962年、72歳で息を引き取りました。

 

 

 

室生犀星の作品の特徴は?

室生犀星の作品は日々の生活と人々や、か弱い命に対する暖かな眼差しを向けている所に特徴があります。

犬や猫なども好きで、ただ一つの少年詩集とされる『動物詩集』では『猫のうた』をはじめ、鳥や虫、魚たちについても書いているなど幅広いテーマを基に作品を生み出しています。

他には女性についても視線を向けており、随筆『女ひと』を1955年に発表。他には童話や俳句なども手掛けました。

また、故郷を愛し、自身の作家名の元となっているほど犀川への思い入れは強く、犀川の付近には犀星詩碑があります。

 

 

 

室生犀星は他にどのように評価されているのか?

室生犀星は金沢地方裁判所で働くまでは特に目立った文筆活動はしていなかったのですが、作品を発表するきっかけとなったのは、同裁判所の上司からの影響と言われています。

以降は生活に苦労しながらも、積極的に作品を発表していきました。

 

代表作

 

1912年に萩原朔太郎と共に立ち上げた詩誌『卓上噴水』(野田宇太郎文学資料館が所蔵)

『抒情小曲集』や交流のあった詩人について記した、室生犀星の中では珍しいとされる、毎日出版文化賞を獲得の『我が愛する詩人の伝記』を室生犀星記念館が所蔵しています。

 

 

 

各ワード紹介

■萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)

口語体の自由詩による作品群が知られており、『純情小曲集』や『氷島』などで日本近代詩を代表する存在となりました。また評論『虚妄の正義』や選詩集『宿命』も発表しています。

室生犀星の作品が『朱欒』に掲載され始めた頃から室生犀星と親交するようになり、以降長い関係となっています。