大隈重信は1838年に佐賀県で生まれました。父の大隈信保は佐賀藩の上級藩士であり、大隈重信も幼い頃から藩校・弘道館で学んでいきます。それから約10年の間、同館では朱子学の教えを受け、成績も優秀な学生時代を送りますが、次第に授業内容に不満を持ち、18歳の頃に改革を希望する騒動を起こしました。このことで退学となりますが、同時期から国学者でもある枝吉神陽が開く義祭同盟の活動に参加。この間には蘭学寮で洋学を学んだほか、のちに弘道館と蘭学寮の合併も実現しています。
1858年、藩主からの指示で船奉行となり、またたっての願いで蘭学寮にて教師として就任。その後は頻繁に長崎との間を行き来し、1865年から長崎の宣教師グイド・フルベッキを校長として、致遠館を設立しました。ここでは大隈重信も学生への指導にあたったほか、グイド・フルベッキに英学を教わり、アメリカ独立宣言などにも影響を受けたと言われています。
明治政府が立ち上がると、大隈重信は外国事務局判事として活躍し、参議や大蔵卿、など要職を歴任。1881年には明治14年の政変と呼ばれる大隈重信側の人達が追い出される騒動が起き政界から追放されますが、翌年にはそのメンバーとで立憲改進党を立ち上げ、また早稲田大学の前進の東京専門学校も設立するなど、教育・学問の分野にも尽力しました。
やがて外務大臣となった際には、日米修好通商条約を改めてもらうように画策している最中に襲撃され、右足を無くすほどの大怪我を負うなど危険にもさらされ、一時は辞表を提出しています。しかし、1898年には自身の結成した進歩党と板垣退助の自由党が合わさった憲政党を立ち上げ、総理大臣となりました。日本初となる政党内閣、また隈板内閣として期待が持たれていたものの、約半年後、共和演説事件がきっかけとなり同年に解散。1914年には70代で第2次大隈内閣を立ち上げるなど晩年まで日本の政界で活躍しています。
そして1922年、85歳で息を引き取りました。
大隈重信はこのように政治家としての立場を何度も失いながらも、その度に政治の座に返り活躍をした所に特徴があります。
そんな経験もあってか、大隈重信が遺した多くの名言の中には『諸君は必ず失敗する。~失敗に落胆しなさるな。失敗に打ち勝たねばならぬ。』という言葉もあります。
また、新しい考えや倒幕について積極的であり、政府を一新させる倒幕については枝吉神陽から影響を受けている事。
1867年に徳川将軍の徳川慶喜に、朝廷に政権を返す大政奉還の提案を試みた事。
次の年にはイギリス公使パークスとキリスト教徒の扱い方について、強い口論を起こしているなど、新しい試みを恐れずにいる姿勢もその特徴や評価につながる一部分といえるでしょう。
大隈重信は、ただ提案をしているだけでなく、主張の実現を幾度も成功させています。東京専門学校の設立や鉄道を造った事。地租改正や貨幣制度を整える事で財政の安定を確保。
国の情勢を詳しく知るために統計院を立ち上げるなど、今日の日本を築き上げた一人と言えます。
関連書など
『紙幣寮年報概略模本』や『内外公債並紙幣償還概算書』。
他、『憲政に於ける与論の勢力』と銘打った、本人録音による演説のレコードが大隈重信記念館にて所蔵されています。
■枝吉神陽(えだよししんよう)
1822年に生まれた佐賀藩の国学者、また思想家です。佐賀藩の中でも、天皇を日本の中心人物とする尊王派のひとりとして名が知られています。
佐賀の吉田松陰とも呼ばれており、大隈重信の他に実の弟となり副島種臣や江藤新平なども育てました。
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