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2021.03.11
骨董品

大山巌とは【功績/軍人/西郷隆盛】

大山巌(おおやまいわお)の生い立ちは?

大山巌は1842年に鹿児島県で生まれました。なお父は藩士で砲術家として長けていた大山彦八、従弟は無血開城や明治維新にも大きく関わった西郷隆盛です。

薩摩藩士の息子として生まれた大山巌は幼い頃から、郷中教育という教師を設けない独特の教育方法の中で、基礎教育や精神面、及び天皇を敬い倒幕を行う尊王攘夷などについて学んでいきました。のちに倒幕運動にも参加するようになり、20歳の頃には薩摩藩の尊攘派の生命が奪われた寺田屋事件の現場にも居合わせています。このことから一時は謹慎処分となりましたが、翌年には幕臣であった江川英龍の下で学び、砲術について免許皆伝を授かるまでとなりました。その後、明治元年に戊辰戦争が勃発すると、大山巌は砲隊長として従軍しています。

明治維新後にはフランスやスイスへと渡り、軍事政権や砲術についての知識を深めました。約4年間ヨーロッパに滞在し、帰国後には、西南戦争に備えた政府軍の一員として陸軍少将に任命されています。大山巌の親族でもある西郷隆盛が、自身の生徒や士族の代表と言う形で反乱を起こした事がきっかけとなった戦争でしたが、対して大山巌は反乱を抑える立場となり、西郷隆盛を自害に追い込ませる事となってしまいました。

以降、寡黙になったと言われる大山巌は、1880年に陸軍大臣に就任。1894年の日清戦争時には第二軍司令官を勤めています。そのほか1904年の日露戦争の場にでも日本軍の勝利に貢献し、軍人としての活躍と実績を積んでいきました。

やがて60代半ばの頃に公爵の地位を授かり、晩年も内大臣に就任するなど要職を務めています。

そして1916年、75歳で息を引き取りました。

 

 

 

大山巌の活動の特徴は?

大山巌は戊辰戦争や日露戦争などと言ったように、日本政府を揺るがす数々の争いの場で活躍した所が特徴的です。

とは言え西南戦争では西郷隆盛だけではなく、他の薩摩の士族を倒す事となってしまい、以来薩摩に帰る事はありませんでした。西郷隆盛からは郷中教育にて戦う事を学び、1868年の明治維新の時期には西郷隆盛に付き添っていたなど強い結び付きがありました。

なお大山巌は幼い頃から武士として教育を受ける中で身体的にも強い負担を背負っており、左眼に一生治らない大きな怪我をしたり、1868年の戊辰戦争時には右耳が多大に負傷すると言ったように、心身共に壮絶な経験をしています。

 

 

 

大山巌は他にどのような部分が評価されているのか?

ヨーロッパ留学で学んだ事を日本に持ち帰り、陸軍に活かした事や、1904年の日露戦争時の活躍を評価されています。この時には、同じ薩摩の東郷平八郎に続く形で「陸の大山、海の東郷」と称されました

数々の武功を挙げていることから猛々しいイメージの大山巌ですが、実際は穏やかな人柄で軍人しても多くの人に親しまれてきたようです。

 

関連書

 

西南戦争や日清戦争時の関連書類や錦絵及び写真。

1874年にフランス滞在時に参謀局となったのを現す公文書が、国立公文書館にて所蔵されています。