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土田麦僊は1887年2月に新潟の佐渡で生まれました。なお本名は金二と言います。10代半ばの頃に京都に移り、真言宗智山派である智積院に入るのですが、画家になることを決めた土田麦僊は失踪してしまいます。しかしそこから京都画壇において昔ながらの技法を主に使う鈴木松年塾に入り、その翌年の1904年には、竹内栖鳳から学び、号を麦僊と称しました。
竹内栖鳳から受けた影響は大きく、1908年第2回文部省美術展覧会において『罰』が初入選。それと翌年の1909年には京都市立絵画専門学校でも学び、2年後の1911年には同じ文部省美術展覧会の第5回で『髪』を発表し、同年には卒業するなど慌ただしい時期を過ごしていきます。
また30代になった頃には村上華岳や榊原紫峰などと共に国画創作協会を設立。1921年には小野竹喬達と共にヨーロッパ各地を渡り歩き、1928年に国画創作協会が解散となっていたのもあってか、帰国後は帝国美術院展覧会が発表の場となっています。またこの間1927年には、フランスよりレジオンドヌール勲章を受章しました。
そして1936年6月、49歳の若さで息を引き取っています。
土田麦僊は近代的な西洋絵画と伝統的な大和絵について深く学んだ内容を上手く融合させた、色鮮やかで斬新かつ上品な雰囲気に特徴があります。
また活躍の場が国画創作協会から帝国美術院展覧会になった際には、シンプルに構成と色彩感覚で出来た平面的な作風を発表するようになりました。
東京国立近代美術館に所蔵されている1924年発表の『舞妓林泉図』は、当時の日本美術が求めていたものに応えた作品だと言えます。明治期の日本は海外に対して強い憧れを持ち、また同時に日本美術としてはそれまで培ってきたものを見つめ直しており、日本美術に近代的な作風を当て込んだのは歓迎されやすかったとも考えられるからです。
よって欧州に渡り、日本からしたら最先端の絵画技術を学んだ土田麦僊が帰国後に発表したこの作品で、「舞妓の麦僊」と言う異名を獲得することに成功しました。
他の代表作
初期の作品として知られている、京都国立近代美術館に所蔵され、1908年発表の第2回文部省美術展覧会で3等賞を獲得した『罰』。この作品は重いタイトルですが、叱られた3人の子供の学生が反省していると言った内容となっています。
次に京都国立近代美術館に所蔵の1930年発表の『大原女』。
京都の山里である大原の農作物や薪などを売り歩く3人の大原女が休憩している所を描いているのですが、土田麦僊が描く華やかな舞妓とは異なり、地味に感じられるかもしれません。しかし同作では鮮やかな色彩感覚も表現されており、また穏やかな雰囲気も感じられる、舞妓の華やかな女性像と並び立つ作品として、今でも評価されています。
■竹内栖鳳
1864年に生まれ近代的表現を日本に持ち込み、「楳嶺門下の四天王」として名を馳せました。アジアや欧州にも渡り培った、写実性と思いきった構図が持ち味の竹内栖鳳の作風には、土田麦僊も強く影響されました。また竹内栖鳳の「感性を描くにはまずその形を見る」と言う考えを土田麦僊は忠実に守っています。
■国画創作協会
土田麦僊に限らず個性的で斬新な作風を持つ画家達によって、1918年に結成されています。1928年に解散となるものの、工芸や彫刻家も後に迎えた作家集団として成長を遂げました。
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