国吉康雄(くによしやすお)
国吉康雄は1889年9月に岡山市で生まれました。
1904年に岡山県立工業学校の
染料科に入るものの、2年後には中退し
日露戦争終結直後という状勢の中で
アメリカのシアトルに移っています。
現地では鉄道や農場などで働き、
その後ロサンゼルスへ渡ると
ロサンゼルス美術図案学校へ入りました。
1910年になるとニューヨークへ移り住み
写実主義絵画運動であるジ・エイトの中心的人物の
ヘンライの下で学んでいます。
ここで腕を磨き、大恐慌が発生した1929年
ニューヨーク近代美術館で開かれた
「19人の現存アメリカ作家絵画展」においては
大恐慌の空気感を表現したエドワード・ホッパー。
動物の骨や花などをモチーフにした
作品展開を行ったジュージア・オキーフなどの
作家に混じり、作品を出展しました。
やがて54歳の時には
『誰かが私のポスターを破った』によって
カーネギー国際展で一等賞を獲得。
以降も作品を発表しつ続け国際的にも名を上げ
1952年ベネチア・ビエンナーレ展において
アメリカ代表4作家の1人として選定されますが
翌年の1953年、64歳で息を引き取っています。
作風
国吉康雄の作品は、始めはアメリカ人の目からは
奇異に映っていたものの、段々と評価が高まり
セザンヌでもない新しい具象絵画だとみなされ
アメリカ代表4作家の1人として
選定されるまでに至りました。
最初期は空想じみた内容や女性像を展開し
その中でも女性を描いた作品は、
1930年代頃になるとカフェ店員やサーカス団員である
女性をモデルにしているものの、
特定の女性として限定さているわけではない
ユニヴァーサルウーマンのシリーズに
発展していきました。
なお活動初期は「夢の時代」と称されており
ユニヴァーサルウーマン時代は
「理想を忘れた時代」とまとめられています。
(他に「理想を忘れた時代」には
静物も描いています。)
この2つの時期はどちらも暗い雰囲気が
満ち溢れているのですが、活動終盤になると
一転して明るい色彩とインクで描いています。
ただその活動終盤時期の作品でも、
色は明るいながらも、雰囲気は暗いままである
と言う共通点があります。
外国人としての礎を築いた国吉康雄
国吉康雄の人生は作家としての権利や
アメリカ人として認めさせるために
戦う人生でもありました。
渡米始めは英語が分からず苦労を強いられた
と言いますし、日露戦争終結直後や大恐慌、
さらに第二次世界大戦など
時代の大きなうねりの中で日本人として
肩身の狭い思いもあったと考えられます。
それでも作品を描き続けることが
氏が生き続ける理由となり、芸術家に限らず
アメリカで生きる外国人の
礎を築いた一人となりました。
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