向井良吉は1918年1月に京都市に生まれました。なお兄は洋画家で、北海道から鹿児島まで渡り、民家を描き続けた向井潤吉で有名です。向井良吉は1930年に京都市立美術工芸学校彫刻科に入り、その5年後に卒業。同年に東京美術学校彫刻科塑像部に入学し、在学中の1940年には新制作派協会第5回展において『臥せるトルソ』が初入選を果たしました。
ところが1941年に太平洋戦争が開戦したことで早めの卒業となり、向井良吉自身も戦争に駆り出されます。
やがて、戦後1946年にマネキン製作会社である有限会社七彩工芸を設立。30代の時には行動美術協会会員となり、1959年に第5回サンパウロ・ビエンナーレにおいて、日本代表として『発掘した言葉1』等を発表し国際的にアピールします。1961年には『蟻の城』シリーズにより第4回高村光太郎賞を受賞。なお『蟻の城』シリーズは活動初期の代表作となります。
それ以降は神戸須磨離宮公園第1回現代彫刻展り運営委員や、第1回彫刻の森美術館大賞の審査委員を務めるなども行い、1980年に初めての個展である向井良吉彫刻展を開催。
また1981年に武蔵野美術大学造形学部芸能デザイン学科の教授となると言ったように、後進の指導を行い2010年9月に息を引き取りました。
向井良吉は抽象彫刻として作品を造り上げました。その始まりはプラスチックやアルミニウム、木材などを使うことで、物と周りの関係性に着目し、また同じ彫刻家で素材の質を使って、骨太な人間の生命力を表現したヘンリー・ムーアと通じると指摘されています。他にも様々な素材を作りそれらは戦後の彫刻において、抽象表現の未来と戦後に作られた様々な材料を象徴するものと言われています。
これらの素材はやはりこれまでの日本ではよく知られたものではなく、また当時は斬新な手法であった扱いやすい蝋(ロウ)の特性を活かした蝋型鋳造技術も使って、作家性を表現していきました
■自身の経験と未来の日本を反映
なお作品作りの根底には、自身の戦争体験があると言われています。そこで仲間達を失いその面倒を見た事が元となっているようです。自身もやはり生死を分ける危うい場所におり、また戦後から復興及び急激に発展していく環境や、戦争の経験を作品として残していきました。
向井良吉は現在の抽象彫刻について苦言を呈しており、それは人間と造型の関連性がないと、芸術に対して熱い気持ちも持ち続けました。
また画家と彫刻家により陶磁器を手掛ける『火の芸術の会』の加わるとなど、強く芸術全般に興味を示している人物でもあります。