吉嗣拝山は1846年に福岡の筑前大宰府で生まれました。ちなみに本名は吉嗣達と言い、父は地元の町絵師であった吉嗣梅山です。
活動最初期には広瀬淡窓が開く咸宜園へ入り、さらに同じ咸宜園の生徒でやがて同塾を受け継いだ広瀬青邨からは、漢学について教わりました。また20代になると京都に上京し、近代南画の先駆けでもあり、福岡南画壇を形作った人物と言われている中西耕石から、文人画について指導を受けています。
1868年の明治維新後には倉敷県令となり、また後進の教育を務めたりもしていましたが、20代半ばの頃に災害の影響で右腕を失ってしまいました。この事はそれまでの生活から、画家としての活動に集中するきっかけとなり、後述する活動も相まって『左手拝山』と呼ばれるようになります。その他1877年に文人画の本場である中国へと行き学びを深めるなどして、1915年1月、70歳で息を引き取りました。
山水や花鳥画が得意で、また1912年発表の『芦雁図』には特に評判が集まっています。それに右腕を失った以降の作者名『拝山』の記入は、左に流れるようになっていると言う指摘があります。
他には詩にも優れており、1918年発表の漢詩集『古香書屋詩存』も出しています。
吉嗣拝山は災害の中で負った怪我で切断となった、自身の右腕の骨から骨筆を作り、またその骨筆を持って中国へと行き上海画壇で『左手の文人』と称される評判を獲得しました。ですがそう言った知名度の獲得もあってか、吉嗣拝山の偽物の作品が蔓延する事態となっています。
また活動は中国には限らず、日本でも大正天皇の前でその骨筆を使って、梅花を描いたのは大きな反響となりました。当時の日本では南画の一般的地位が低くなっていたのですが、その再興を支えた人物と言われており、九州の画家及び漢詩人として誰もが知っていると言うほどの知名度を獲得。そして愛知の山本梅荘や信州の児玉果亭と並んで、地方南画家の三傑として数えられるようになりました。
■他の代表作
1894年に英国王室に献上する為の『富岳の図』。
1887年制作の『山水図(自賛七言絶句)』(静岡県立美術館に所蔵)などがあります。
■文人画
中国で知識人であるものの、職業画家ではない人達が水墨もしくは淡彩で、自然体で描いたものが始まりです。
日本に伝わった際は南画と言われ、また本来の文人画のテイストは日本のものにはないものの、日本人の心の寄り添うものが特に18世紀から19世紀の間に誕生したと言われています。
■咸宜園
大分県の日田出身である儒学者の廣瀬淡窓が、江戸時代後半の1805年に創った私塾です。私塾名は「咸く宜し」から取られ、生徒の個性を尊重する方針が採られています。
身分や性別などに分け隔てなく育て、様々な人物を輩出していますが、南画家としては田能村如仙や帆足杏雨などがその出身です。
現在では観光スポットとして訪れることができます。
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