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2020.07.02
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右田年英【日本画家/大分県/浮世絵版画】

右田年英(みぎたとしひで)

右田年英は1863年3月に現在の大分県にあたる豊後国の臼杵、現在の大分県で生まれました。なお本名は右田豊彦と言い、『鎌倉武士』や『堀部妙海尼』が知られた劇作家の右田寅彦の兄でもあります。右田年英は14歳の頃には東京に上京しており、そこでは歌川派であり血みどろ無残絵で話題性を獲得した月岡芳年の下で教わりました。

1887年にはめさまし新聞の社員として働き挿絵を手掛け、その2年後には青年絵画共進会において『福女団扇を執て立つの図』を発表。やがて50代になると脳溢血にかかり体調を崩すものの、1921年には分業制である浮世絵版画について次の世に伝えることを目的とした、年英随筆刊行会を立ち上げました。しかしながら、その一環として年英随筆シリーズなどを出版するも、結果は上手くいかなかったとされています。

 

そして1925年2月、63歳の若さで息を引き取りました。

そのほか、明治の序盤期、右田年英の青年期には洋画家として先駆けた国沢新九郎から、洋画について教わっている記述も残されています。

 

 

右田年英の作品の特徴は?

錦絵の作品が多く、それにめさまし新聞が元となった東京朝日新聞が世に出始めてからも、挿絵を描いています。

また師匠の月岡芳年がよく描いていたように、自身も戦争画を発表しました。他に役者絵・美人画も手掛けたりしています。

 

 

右田年英はどのように評価できるのか?

1894年に起こった日清戦争の様子を、報道錦絵として事細かに表現し大きな評判を獲得しました。また稲野年恒や水野年方と共に、芳年門の三傑や浮世絵三傑とも呼ばれています。

他にも月岡芳年の系譜としては伊東深水にも連なっていくのですが、右田年英は烏合会を立ち上げたメンバーでもある河合英忠や鰭崎英朋。それに山田英辰、寺田英光などと言った弟子も育てているのです。

ちなみに月岡芳年の絵は独自の浮世絵と言われると同時に、そのジャンルの人気のかげりから小林清親と並んで、最後の浮世絵師とも言われています。しかし月岡芳年の次の世代となる右田年英のような浮世絵師は、当時の知られているものを題材にして、カラフルな色彩で新時代を感じさせるような新しい作風を提示したと現在は評価されています。

 

 

他の代表作

1921発表の『年英随筆 羽衣』(太田記念美術館が所蔵)があります。これは三保松原における羽衣伝説の名場面を描いたもので、天に帰る天女の顔つきやカラフルな衣裳などが特徴的です。なおこちらには浮世絵の地位が失われた1921年に、昔ながらの木版画での錦絵で発表したのが挑戦的だと言う評価があります。

他にも20世紀となった1905年に作った『新橋元禄舞』(太田記念美術館が所蔵)は、新世紀の美の価値観が込められていると言われています。そして1887年から3作のシリーズとして『春遊三美人』の美人画も代表作の一つです。

 

 

各ワード紹介

■錦絵

1765年頃に鈴木春信が中心となって誕生した多色刷りの木版画で、その細かさから錦に例えられ浮世絵を象徴するものとなりました。

 

■浮世絵

その名の通り『浮いた時代』と言われる考えが反映され、当時の流行り物を明るく捉えると言う趣旨のものを指します。浮世絵は細かく役者絵や美人絵に分類されます。