北野恒富(きたのつねとみ)は1880年5月に石川県で生まれました。なお本名は富太郎と言います。幼い頃から絵に興味を持っており、10代前半の頃からは木版画の版下(下書き)の製造業を行っている西田助太郎の下で、版下技術について学びました。さらに地元の住職からは、南画や漢学について教わる日々を過ごしたと言われています。
1897年に画家になるため大阪へ移ると、今度は木版彫師の伊勢庄太郎に版下画を教わりながら、浮世絵師月岡芳年門下であり同郷出身の稲野年恒に師事。なお新聞社の彫刻部で働きながら、新聞の挿絵にも携わるなどして経験を積んでいきました。
やがて北野恒富が30歳になった頃、文部省美術展覧会において出品した『すだく虫』が初入選となり、また1914年には日本美術院の再興院展にて『願いの糸』を発表。さらに1915年には大阪美術展覧会を立ち上げ、3年後、美術団体の大阪茶話会の設立に加わると言ったように、大阪の代表的画家としての地位を確立していきました。なおその間の時期には他のグループ活動や後進の指導も行っており、1912年には大正美術会の立ち上げ、1914年には画塾の白耀社を開いたりもしています。そのほか金城画壇の特別会員になったり、日本美術の権威的存在である横山大観と深い繋がりを持っている事もよく知られた北野恒富の経歴の一部です。
そして1947年5月、67歳で息を引き取りました。
北野恒富は情緒が豊かな大阪の美人女性を描いた作品を、数多く手掛けていると言った特徴があります。怪しい雰囲気の漂う女性や、上品で華やかな雰囲気を持つ女性も描いているのです。
また歴史上の人物を、浮世絵的な表現で描いていた時期があることも知られています。
これらの作風で北野恒富は一際浮いた存在と言われ、活動初期は画家達から『画壇の悪魔派』と言われてもいました。その理由は上記のような怪しい雰囲気を身にまとった女性像である事が起因しているのですが、やがて新しい感覚を身に着けた「はんなり」とも称される作風を展開していきました。
それらは、時代と共に変化したり特有の雰囲気を持つ大阪の女性達について観察してきた背景があります。
また、19世紀終盤から欧州地方で始まった、アール・ヌーヴォーの様式を取り入れたポスターなども描いたりしています。
代表作
1914年発表の『願いの糸』(木下美術館が所蔵)
1928年発表の『宵宮の雨』(大阪市立美術館が所蔵)
1936年発表の『いとさんこいさん』(京都市美術館蔵が所蔵)
1939年発表の『星(夕空)』(大阪私立美術館が所蔵)
などがあります。
■白耀社出身の画家
近代大阪女性画家の走りとされる、池田蕉園や上村松園に続く三園とも言われる島成園。
『香を聞く』や『爽凉』なども知られている自身の娘をモデルにした作品群も有名な、中村貞以などがいます。