内田宗寛は1883年に千葉県柏崎市で、
塗師のニ代目勘三郎の長男として誕生しました。
高等小学校卒業後はしばらく家の手伝いを
行っていましたが、20代前半に
農商務省の漆器練習生となるため上京。
基礎を学んでから一時は故郷に戻りますが
29歳になると農商務省からの依頼で、
漆器産地での指導の為に各地を飛び回ります。
また本人も、刀の鞘塗りの名手として知られる
鈴木喜助から教えを受けたり、
赤塚自得からの言葉により研究に励むなど
精進の日々が続いていきます。
★赤塚自得に酷評される
内田宗寛は赤塚自得から
「あなたの棗(なつめ)はまるで素人のようだ」
と言われました。
棗とは、実用性と見た目の美しさを
両立させた茶器の事です。
赤塚自得は蒔絵の伝統を守り、
一貫した作風を崩さずに制作を続けた事で
知られていますが、蒔絵は実用と見た目の美しさが
重視されてきた一面があります。
そう言った歴史的背景も赤塚自得は熟知していたから
出た言葉なのかもしれません。
とは言え内田宗寛はその赤塚自得や、
壮大な作品作りで知られている同じ蒔絵師の
植松包美氏の作品に漆塗を施し、
同時に棗についても研究していきました。
★作風を確立し地位を高める
内田宗寛は1914年に、故郷にて川上不白を祖とする
江戸千家から茶道を学び、
そこから一つの作風を確立させます。
黒塗りの簡素的なものが棗のあるべき姿と考え
また独自に研究を続けていきました。
その中の代表的な作品の一つが
倣正倉院香木形平卓であり、
正倉院御物を模倣したその作品は
品位高いものとして知られています。
そして1941年に技術保存資格者に認定。
1970年には優秀漆工技術者になるなど、
名実共に代表的な漆芸家となりました。
内田宗寛は100歳まで生きましたが、それは
研究と鍛錬の歴史でもあったように感じます。
農商務省の漆器練習生としてもそうですし、
また工業試験所の漆器研究室において
三上博士達からも教えを受けていました。
しかしその上で赤塚自得から
「あなたの棗(なつめ)はまるで素人のようだ」
と言われたとなると、茶器の奥深さと、
茶器制作の学びには完成がないのだと言う事が
内田宗寛を通して伝わります。