会津本郷焼の起源は室町時代まで遡ります。
当時尾張や美濃の地域は絶えず戦が行われておりその地で窯をかまえていた職人は集中して焼きものができる土地をさがしていました。
全国津々浦々に離散していった職人の中には東北地方を目指していた者達もありました。
その中の瀬戸地上出身の水野源左衛門、長兵衛という職人がいました。
二人は福島県の長沼町(現在の須賀川市)において故郷瀬戸地方の粘土に大変近い良質の原料があるということに辿り着き、地に留まり窯を構える様になります。
そこ頃会津の藩主「蒲生氏郷」は会津鶴ヶ城の改築に取りかかり、天守閣をはじめとした瓦の制作を藩内である長沼で焼きものをはじめた水野源左衛門に命じ会津で瓦を焼かせたことが起源であります。
会津は名のしれた豪雪地帯であり、冬は相当冷え込み「凍み割れ」といって寒さで瓦が割れてしまう有様でした。しかし源左衛門の焼く瓦は「凍み割れ」をしない瓦を試行錯誤の上完成させ、その功績を讃え、長兵衛に「瀬戸右衛門」という称号を与えました。
また保科正之が藩主の時代には茶道が盛んになり、水野源左衛門に茶会を焼かせたことにより陶器が根付いていくこととなります。
会津本郷焼で欠かせないもう一つに磁器もあります。
こちらは1800年前後に会津の良質な原土を使い、江戸から職人を呼び寄せて制作にあたらせますが、上手くいきませんでした。
会津の職人であった「佐藤伊兵衛」は当時各窯の技術が門外不出の機密情報であった時代に「有田」の窯元に潜入しその技術を体得するのであります。
佐藤伊兵衛の帰国により技術を得た会津藩は備前皿山を元にした窯をつくり、ついに磁器の制作ができることになります。
その後会津地方は戊辰戦争において激戦が繰り広げられ、町は戦火につつまれます。
その後も大正の大火などもあり、その都度窯元は何とか生き伸び民藝運動による再評価なども受けながら現代へと続いています。