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2020.11.19
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伊達宗紀とは【功績/作品/書/伊達春山】

伊達宗紀(伊達春山)の生い立ちは?

伊達宗紀(だてむねただ)17909月に、6代目宇和島藩主の伊達村寿の長男として生まれました。号は春山と称しており、また宗紀の名は成人する際に仙台藩主より授かった名だと言われています。

 

その後30代半ばの頃になると父に代わり、第7代宇和島藩主に就任。しかしこの時、宇和島藩は財政に余裕がなく、藩政の見直しも必要な状況と言われていました。そこで伊達宗紀は木蝋専売制をするなど殖産興業に尽力したほか、財政改革に積極的に取り組み、1826年から10年間に渡り強く制限を設けた倹約を行っていきます。この間、1829年には大坂商人との間で借りているお金を、無利息で200年賦償還する約束をとりつけるなどし、藩の財政を立て直した上に6万両もの貯蓄を作り上げました。

 

やがて1829年には、自身の家督を継がせるために伊達宗城を養子として迎え入れています。伊達宗城は1844年に第八代宇和島藩主になり、藩政改革を続行。伊達宗紀は江戸で隠居する身とはなりますが、マシュー・ペリーが来日した際は、幕府に開国を提案するなどしました。

後年は宇和島に自身の隠居場所“潜淵館”を設立し、その敷地内に庭園を建設。この時70代半ばだったと言われていますが、その後も余生を楽しみ、1889年、98歳で息を引き取っています。

 

 

 

伊達宗紀の活動や作品の特徴は?

伊達宗紀は財政の立て直しを支えた事。100歳にちかい長寿である点も特筆すべきものがあります。

なお殖産興業には、2人の藩士を経済学者で農政や物産などにも詳しい、佐藤信淵の下で学ばせもしました。

また書画や詩文に対しても優れた才能を発揮している事でも知られています。

 

 

 

伊達宗紀は他にどのような部分が評価されているのか?

伊達宗紀は父親思いであり、父のために食材を獲ったり、能が趣味であることから能楽師を呼んだりしている所も評価の一部です。

また伊達宗城は他に富国強兵にも力を入れているのですが、このように活動できたのは伊達宗紀の財政改革のおかげだと言った指摘もあります。

 

書作品など

 

遺言となる辞世短冊の「よきも夢 あしきも夢の世の中を 捨てて今より後は極楽」があります。

他には三重にある五色浜神社内にある1885年に作られた石碑には、伊達宗紀の書が表面にあります。

(ちなみに裏面は漢学者の山下清風の撰文です。)

 

 

 

各ワード紹介

■伊達宗城(だてむねなり)

1818年に江戸で生まれ、伊達宗紀から引き継いだ財政改革の成功や富国強兵だけではなく、公武合体論の提唱やアジアで初めてとなる蒸気船造りに携わるなど様々な施策を行ってきました。

松平慶永や島津斉彬、山内豊信と共に幕末の四賢侯と呼ばれています。

 

■宇和島藩

江戸時代に伊予国(現在の愛媛県)で誕生した藩で、伊達政宗を初代とします。

世継ぎが一時期いなくなるのを、養子を迎えいれた事で解決したのですが、1732年に享保の飢饉が発生。

享保の飢饉は西日本で起こった相次ぐ米の不作問題により起きたもので、宇和島藩では何代にも渡って解決に向かいました。