伊藤左千夫(いとうさちお)は1864年に千葉県で生まれました。生家は農家でしたが、漢文や漢詩を教わり、10代後半になると明治法律大学(今の明治大学)に進学しますが、半年ほどで目の病を患い中退。以降は牧場で懸命に働き、20代半ばの頃に上京すると、乳牛の飼育と牛乳搾取業を始めています。また一方で、趣味に茶道や和歌、また佐瀬春圃が開く塾で漢学についての知識を深めていきました。
1897年頃からは『万葉集』に好んで触れるようになり、万葉論講会などにも出席しています。ちなみにそこでは事実をありのままに示す写実的手法について学び、その後30代中頃からは正岡子規に弟子入りするなど、歌や文学の世界に没頭していきました。5年後には正岡子規が他界しますが、伊藤左千夫は1903年に短歌雑誌『馬酔木』を発表し、また1908年に廃刊されたのをきっかけに同年に同じく短歌雑誌である『阿羅々木(「アララギ」)』を刊行。歌人としての活動を積極的に行っていきます。
ちなみにその前後の1906年に小説『野菊の墓』。1908年に『春の潮』等を世に送り出すなど、小説家としての才能も表しました。
そして1913年、48歳の若さで息を引き取っています。
雑誌発表や歌や小説を発表しながらも、『万葉集』についても研究した所にまず特徴があります。
他に『阿羅々木』では歌についての考えを発表し、そこでは他の多くの歌人も輩出。代表的人物としては『太きょ集』や『氷魚』などの島木赤彦や、『赤光』『あらたま』などの斎藤茂吉がいます。
ちなみに牛乳搾取業も活動終盤まで行っていました。
伊藤左千夫は正岡子規の系譜を受け継ぐとも言われていますが、正岡子規が現在まで知られているのは伊藤左千夫の功績のひとつでもあると言った指摘もあります。
それに『野菊の墓』と『春の潮』は正岡子規が編み出した、事実をありのままに示す写生が表現として組み込まれているのです。
このように正岡子規との結び付きがよく評価されているのですが、1898年に新聞『日本』にて発表した『非新自讃歌論』では正岡子規とも争ったり、また認められたとも言われており、いずれにしろこれも正岡子規との強い関連性を感じさせるエピソードです。
他の代表作
1901年発表の『牛舎の日記』。1902年発表の『正岡子規君』などがあります。
■正岡子規
1867年に生まれた俳人や歌人でもあり、性格はとにかく前向きで様々なことに興味を向けたエネルギッシュな人物だと言われています。
日清戦争に加わることを志願しており、また小学生時代から雑誌を発表。俳句に革命を起こすことを理念として、俳誌『ホトトギス』を世に送り出しました。
■馬酔木(あせび)
元は水原秋桜子が手掛けていた俳誌『破魔弓』で、1928年『馬酔木』と名を変えます。
森田義郎や結城素明などが初期メンバーとして連ね、正岡子規の写生主義を提示してきました。
■万葉集
今でも存在する日本の歌集では一番古いと言われており、7世紀後期から8世紀後期にかけて作られました。
4500もの歌が収められており、作者は市井の人々から天皇まで様々で、和歌の原点とも言われています。