久米桂一郎(くめけいいちろう)
久米桂一郎は1866年8月に佐賀県で生まれました。
幼い頃から絵を描くことに興味を持ち
また歴史学者である父の邦武から、
史記や戦国策などについて学んでいきます。
1884年にはラファエル=コランから教えを受けた
画家の藤雅三から学び、1886年、フランスに渡り
同じくラファエル=コランの弟子となりました。
なおフランスでは黒田清輝と知り合い、
生涯まで友として関係が続きます。
そして黒田清輝も藤雅三から教えを受けていました。
1893年に日本に帰国すると
久米桂一郎は黒田清輝と共に天真道場を設立。
さらに1896年には白馬会にも加わっています。
白馬会は保守的な明治美術会に
対抗する目的がありましたが、
外光派を強く謳った作風の白馬会での活動は
久米桂一郎を代表する経歴となりました。
そして1934年7月、68歳で息を引き取っています。
代表作としては『裸婦』や『清水秋景図』
『姉の像』などがあります。
作風
久米桂一郎は確かな描写性と外光派の作風により
明治後半時代の洋画に
影響を及ぼした事で知られています。
外光派とは、
今まで室内で風景画を仕上げていた事により
自然光が暗かった作品を、室外で描く事により
明るく自然光を取り入れるようになった、
ヨーロッパの美術運動を指します。
フランスに渡った久米桂一郎なら、
それを取り入れているのは
至極自然な事とも理解できます。
また活動の初期には
師匠のラファエル=コランの影響
が強く出ていると言われています。
そしてラファエル=コランは
学術的な作風でありながらも、後に外光派的要素を
取り入れている事で知られています。
指導の道に進んだ久米桂一郎
久米桂一郎は1898年に東京美術学校の教授を務めると
以来作品制作からは距離を置くようになっています。
行政や啓蒙活動に力を入れており、
久米桂一郎と言えば画家と言うより
指導家のイメージが強い方も多いのかもしれません。
亡くなったのが1934年なので36年間ほど
画家として活動せずに
指導家として務めた事になります。
なお製作から興味を置いた時期からは
美術解剖学や考古学について教えたり、
万国博覧会の為の出張や
文部省美術展覧会審査員も行ったようです。
これらの活動をみていると、久米桂一郎の活動後半は
歴史学者の父と被るような気もします。
久米桂一郎は進学について考えていたものを
父に反対されて断念し、その上で
史記や戦国策などについて父から学んだのは
抵抗があったと思います。
教えるために学者と同じ様に研究もしたはずですし
父から教えられたのと同じ様に人に教える事を、
製作から距離を置いてまで専念したのは
人生の不思議な部分を垣間見ている気がします。