久保田米僊(くぼたべいせん)
久保田米僊(本名:満寛)は1852年2月に
京都市下京区で生まれました。
その後1880年に楳嶺四天王の一人として数えられ
花鳥画に高い評価を持つ幸野楳嶺に師事。
また岸連山や大西椿年から学びながらも、
独学で自身の作風を確立させた鈴木百年や
その息子・鈴木松年からも教わっています。
1880年に開校となる京都府画学校の立ち上げに
幸野楳嶺と、
望月玉川を父に持ち、岸派と四条派を合わさった
写実的な作風で知られている望月玉泉などと共に参加。
その2年後には
第一回内国絵画共進会で銅印を受賞し、
同展の第二回では最高賞となる銀賞を獲得しました。
他にも日本美術家協会展や
パリ万国博覧会の場でも受賞をするなど
活躍を見せていきます。
やがて30代後半には
評論家の徳富蘇峰が設立した民友社に入社。
同じ年に幸野楳嶺や、染色家でビロード友禅や
無線友禅を提案した西村総左衛門と共に
京都美術協会を設立しました。
1893年にシカゴ万国博覧会の
特派員となった翌年には、
日清戦争の最中で従軍記者となるも
「美術は少人数の人にではなく国民のものにする」
と言う信念のもと、
『日清戦闘画報』に代表されるような
質の高い報道記録画を描きました。
そして1906年5月、55歳の若さで息を引き取っています。
そのほか代表作としては『半偈捨身』や
『米僊画談』などがあります。
従軍画家として活躍
久保田米僊は京都画壇の中心人物の一人でありながら
日本で最初の従軍画家として、
息子でもある久保田米斎・金僊と共に活躍します。
日本が戦争の勝利に酔いしれていた時期の中で
需要も多く、久保田米僊は
ジャーナリズム精神に溢れていました。
また戦時画報の『日清戦闘画報』は
久保田米斎・金僊との代表作でもあります。
関連用語の細かい解説
・民友社
1887年に評論家の徳富蘇峰が立ち上げ
当初は平民主義の為の雑誌『国民之友』や、
他の新聞も発行していましたが
日清戦争を機に国民新聞の一本に絞りました。
政治家・陸軍大将の桂太郎が属する
長州閥の発表の場であるような記事を
掲載するようになる
と“御用新聞”と言う通称も生まれています。
その為、日露講和問題や憲法擁護運動の事件の中で
2回焼き討ちに遭っています。
・京都美術協会
1890年に設立された京都の美術家団体です。
久保田米僊は創立幹事となっており
他にも富岡鉄斎や岸竹堂が所属していました。
京都美術密着と言った様子で機関誌
『京都美術協会雑誌』で
その界隈が分かるだけでなく、
明治の京都美術界において
強い影響力を持っています。
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