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2021.04.30
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久保田万太郎とは【代表作/戯曲/演劇/俳句/小説】

久保田万太郎(くぼたまんたろう)の生い立ちは?

久保田万太郎は1889年に東京都で生まれました。実家は足袋の製造や販売を家業としており、久保田万太郎は地元の小学校や中学校を経て、慶應義塾大学へ進学。在学中に、同校に教員として務めていた森鴎外や永井荷風から指導を受けたことには大きく影響を受けたとされています。

その後、俳人の岡本松浜や松根東洋城に俳句を学びながら、慶応義塾大学文学部による文芸雑誌『三田文学』において文学作品を発表。小説『朝顔』と戯曲『遊戯』が掲載されると、東京朝日新聞上で話題となり、作家として久保田万太郎の名を広めることとなりました。また別号である千野菊次郎の名で、雑誌の『太陽』に戯曲作品『プロローグ』を応募し入選するなど、注目作家として名を広めていきます。

 

やがて、徴兵を免れることとなった久保田万太郎は、1914年に慶應義塾大学を卒業したのち傘雨の号で俳句の制作を再開。並行して1917年には活動初期の代表作のひとつとも言われる小説『末枯』を手掛けました。

30歳頃からは母校である慶應義塾大学の講師となりましたが、一方で演劇にも携わるようになります。1926年に教員を退職したのちは、東京中央放送局で文芸課長を約7年務め、この間にはラジオドラマの制作。また親交のあった芥川龍之介が序文を担当した、久保田万太郎初の句集『道芝』の発表なども行いました。

以降も句会への参加や、新聞への連載小説の執筆、戯曲の演出などに尽力し、1942年には文芸などをはじめとする文化分野で功績を挙げた者に贈られる菊池寛賞を受賞しています。

第二次世界大戦時には空襲によって家財などを失うこととなっていますが、戦後も俳句雑誌『春燈』を主宰したほか、帝国芸術院会員や読売新聞社の文化賞選定委員、文化勲章選定員会委員などの要職を多く務めるなど積極的に活動していきました。1957年にはこういった功績が認められ、文化勲章、また文化功労者を受章しています。

 

そして1953年、73歳で息を引き取りました。

 

 

 

久保田万太郎の作品の特徴は?

久保田万太郎は文壇デビューとなる『朝顔』や『遊戯』から、作中で下町の人々の心情を写実的に表現している所に特徴があるといえるでしょう。

自身が江戸の下町出身であり同じ目線で描き、明治から昭和に至るまで一貫してその作風を提示していきました。

 

 

 

久保田万太郎は他にどのような部分が評価されているのか?

久保田万太郎は小説や俳句、戯曲でも作品を書いていますが、中でも戯曲を多く手掛けています。実際に戦前戦後において、新劇のみならず新派劇への貢献も評価されるべきでしょう。

また文化勲章の他に1942年には菊池寛賞。そのほか読売文学賞を獲得し、またNHK放送文化賞を授かると言ったように、様々な賞を獲得しています。

なお俳句作りに関して久保田万太郎は「余技」と語っていますが、確かに遊び心のある句もありますが、情緒ある雰囲気があると支持もされており、広く才能があったと言えるでしょう。

 

 

代表作

 

1928年に『大阪朝日新聞上』で連載された『春泥』(国立国会図書館が所蔵)。

1940年発表の戯曲『心ごころ』(国立国会図書館が所蔵)。

1958年に久保田万太郎自ら選んだ句集『流寓抄』(国立国会図書館が所蔵)などがあります。

 

 

 

各ワード紹介

■永井荷風(ながいかふう)

小説家であり、また久保田万太郎の学生時代、慶應義塾大学で教鞭を執りました。代表作には、短編小説集『あめりか物語』などがよく挙げられます。

耽美派に位置し、また雑誌『三田文学』の創刊も手掛けました。