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2019.03.14
骨董品

中沢弘光【帝室技芸員/洋画】

中沢弘光(なかざわひろみつ)

 

中沢弘光は、明治から昭和にかけて

 

洋画家として活躍しました。

 

1874年に東京で生まれ、10代前半から

 

画家の曽山幸彦や堀江正章から

 

洋画について教わり始めます。

 

やがて22歳のときには岡倉天心を初代校長とした

 

東京美術学校西洋画科に入学し、

 

外光派である黒田清輝に弟子入りしました。

 

また白馬会の立ち上げにも関わり、

 

在学中にも活動拠点としていきます。

 

やがて1907年には第1回文部省美術展覧会で

 

三等賞を受賞し、その後官設美術展においても

 

出展しました。

 

その約5年後には解散した白馬会のメンバーであった

 

浦和画家の一人として知られている跡見泰や、

 

多摩帝国美術学校の初代校長である

 

グラフィックデザイナーの杉浦非水達と共に

 

光風会を立ち上げます。

 

1913年には多彩な種類の作品を手がけている石井柏亭や

 

ボロー=ジョンソンに師事経験のある洋画家、

 

南薫造達と共に日本水彩画会も設立しました。

 

これらの功績が認められ、1944年、70歳の時には

 

帝室技芸員となり、1964年9月に息を引き取ります。

 

 

 

特徴

 

中沢弘光の作品の特徴としては、師の黒田清輝の

 

外光派の影響を受けた所にあります。

 

また作品「思い出」や「観音」など、洋画と

 

日本文化が合わさった作品も多いのも、

 

特徴としてあります。

 

情感豊かな作風とも言われ、与謝野晶子の

 

新訳源氏物語の装幀及び挿絵を描いたり、

 

作品「夏」など人物の内面を見つめているような

 

作品なども手がけています。

 

そして中沢弘光は旅を趣味としており、

 

油彩画やスケッチなど様々な手法で、

 

数多くの訪れた場所を描いています。

 

 

 

作品の背景

 

■白馬会

 

1896年に結成された洋画家の団体です。

 

1889年に立ち上げられた日本発の洋画家団体である

 

明治美術会の作家達が作る絵は、

 

それまで常識とされていたアトリエで

 

描いていたものでした。

 

それは対象物をリアルには描いていましたが、

 

暗い色彩感覚(「脂派」とも呼ばれています。)で、

 

小室翠雲らはそれに対抗し

 

白馬会を立ち上げました。

 

白馬会は、下書きから色彩まで外に出て行う

 

外光派の作品をアピールする場でもあり、

 

明るい色彩の作風で

 

「脂派」よりも情感を重視して描いています。

 

(ちなみに「紫派」とも言われています。)

 

1910年に十分に紫派を伝えられたと言う事で

 

解散となりました。

 

■光風会

 

1912年に作られた、絵画と工芸の

 

2つからなる美術団体です。

 

外光派の教えを色濃く受け継いでおり、

 

現在でも文部省美術展覧会や帝国美術院展覧会

 

日本美術展覧会を支える

 

重要な組織となっています。

 

■水彩画会

 

1913年に結成されこちらも今でも続いています。

 

初回は東京の下谷区で発表し、

 

現在は東京の上野を毎年の公開場所としています。

 

 

 

その後

 

中沢弘光は外光派の影響を受け継いだ洋画を

 

世間に伝えるために、

 

また他の画家達と繋りを持つために

 

美術団体を作った印象を受けます。

 

外光派の洋画が多くの人に共感されてきた事実は

 

立ち上げた団体の多くが

 

現在でも続いてる事から伺い知れます。