中沢弘光は、明治から昭和にかけて
洋画家として活躍しました。
1874年に東京で生まれ、10代前半から
画家の曽山幸彦や堀江正章から
洋画について教わり始めます。
やがて22歳のときには岡倉天心を初代校長とした
東京美術学校西洋画科に入学し、
外光派である黒田清輝に弟子入りしました。
また白馬会の立ち上げにも関わり、
在学中にも活動拠点としていきます。
やがて1907年には第1回文部省美術展覧会で
三等賞を受賞し、その後官設美術展においても
出展しました。
その約5年後には解散した白馬会のメンバーであった
浦和画家の一人として知られている跡見泰や、
多摩帝国美術学校の初代校長である
グラフィックデザイナーの杉浦非水達と共に
光風会を立ち上げます。
1913年には多彩な種類の作品を手がけている石井柏亭や
ボロー=ジョンソンに師事経験のある洋画家、
南薫造達と共に日本水彩画会も設立しました。
これらの功績が認められ、1944年、70歳の時には
帝室技芸員となり、1964年9月に息を引き取ります。
中沢弘光の作品の特徴としては、師の黒田清輝の
外光派の影響を受けた所にあります。
また作品「思い出」や「観音」など、洋画と
日本文化が合わさった作品も多いのも、
特徴としてあります。
情感豊かな作風とも言われ、与謝野晶子の
新訳源氏物語の装幀及び挿絵を描いたり、
作品「夏」など人物の内面を見つめているような
作品なども手がけています。
そして中沢弘光は旅を趣味としており、
油彩画やスケッチなど様々な手法で、
数多くの訪れた場所を描いています。
■白馬会
1896年に結成された洋画家の団体です。
1889年に立ち上げられた日本発の洋画家団体である
明治美術会の作家達が作る絵は、
それまで常識とされていたアトリエで
描いていたものでした。
それは対象物をリアルには描いていましたが、
暗い色彩感覚(「脂派」とも呼ばれています。)で、
小室翠雲らはそれに対抗し
白馬会を立ち上げました。
白馬会は、下書きから色彩まで外に出て行う
外光派の作品をアピールする場でもあり、
明るい色彩の作風で
「脂派」よりも情感を重視して描いています。
(ちなみに「紫派」とも言われています。)
1910年に十分に紫派を伝えられたと言う事で
解散となりました。
■光風会
1912年に作られた、絵画と工芸の
2つからなる美術団体です。
外光派の教えを色濃く受け継いでおり、
現在でも文部省美術展覧会や帝国美術院展覧会
日本美術展覧会を支える
重要な組織となっています。
■水彩画会
1913年に結成されこちらも今でも続いています。
初回は東京の下谷区で発表し、
現在は東京の上野を毎年の公開場所としています。
中沢弘光は外光派の影響を受け継いだ洋画を
世間に伝えるために、
また他の画家達と繋りを持つために
美術団体を作った印象を受けます。
外光派の洋画が多くの人に共感されてきた事実は
立ち上げた団体の多くが
現在でも続いてる事から伺い知れます。