中林梧竹(なかばやしごちく)は1827年4月に、現在の佐賀県に位置する肥前国小城郡で生まれました。中林梧竹の名は号で、このほかに剣閣主人とも称しています。家は長年藩士として仕えている家系でしたが、幼少期から書の才能で注目されていた中林梧竹は、儒学者の草場佩川から儒学を教わり、また1845年には藩の令で上京すると山内香雪から書を学びました。以降は藩校の教壇に立ち指南役を務めています。
その後書道家としての活動のきっかけができたのは、50代半ばになる時です。1868年に起こった明治維新以降は長崎県庁にて働いていた中林梧竹ですが、これがきっかけとなり清国に訪れ、書に触れたのが書家としての本格的なスタートになりました。
清国に渡ってからは深い教養を身に着け、日本にも大きな影響を与えた書家の潘存の下で学び、古碑や拓本を集め深く学んでいきます。1884年には、当時の中国では最新の書法を記した古碑法帖を持って日本へと帰り、その7年後、60代半ばの頃には、中国の代表的書家・王義之の十七帖をお手本とした書を書いて、天皇に授けました。
1897年に再度清国に渡り同年に帰国。またその頃になると連綿草書を手掛け完成に至り、これらの活動が日本の書道界に大きな活気をもたらしています。
そして1913年、87歳で息を引き取りました。
中林梧竹の作品は今まで培われてきた書の伝統を重視していると同時に、自由な作風を展開していると言った特徴があります。
篆書体や楷書体、行書体など様々な書体を自在に使い、言葉での表現をより分かりやすく見せています。
このような自由さに溢れた書体は活動終盤になっても変わらず、80代になると作風をまた変えるなど最後まで果敢に挑戦してきました。
中林梧竹は明治の三筆の1人と呼ばれており、百代の新風ともされているのですが、批判的な見方もされているようです。
ですがその否定的な見方も、自由な作風であったからこそと言えるでしょう。なお弟子がいないためのちに続く中林梧竹の系譜はないとも言えますが、同時にその独自性も際立ちます。
ちなみに、中林梧竹は書だけが支持されているわけでなく、名誉などに拘らない謙虚な性格で「梧竹さん」とも呼ばれていました。
代表作など
清国に渡っていた際の教えや現地とのやり取りをまとめた『梧竹叢書』(小城市立中林梧竹記念館が所蔵)。
また完成直前まで最後まで書き続けていた著書の『梧竹堂叢書』などがあります。
■草場佩川(くさばばいせん)
儒学者で大隈重信や副島種臣など、明治に活躍する政治家を育てた弘道館を代表する人物でもあります。
幼少期からその才能が注目されており、8歳の頃に東原庠舎に入りキャリアを積み上げ、さらに漢詩と書画でも才能を発揮しました。
■山内香雪(やまのうちこうせつ)
陸奥会津藩藩士ですが江戸時代後半に活躍した書画家としても活躍を見せました。『梅花集』や『名家手簡』などを出しています。