中島歌子(なかじまうたこ)は1845年12月に現在の埼玉県にあたる武蔵国で生まれました。また水戸藩がよく使っていた池田屋の子供でもあります。その後、中島歌子は15歳の時に常陸水戸藩士である林忠左衛門と自らの意志で結婚しますが、約4年後に起こった天狗党の乱によって林忠左衛門は亡くなってしまいます。
また林忠左衛門は反幕府である尊攘派なのですが、彼が亡くなったその日に中島歌子自身も捕らえられました。出獄になったのはその2か月後となり、以降、『詠史百集』や『萩園歌集』が知られている歌人の加藤千浪の下で学ぶようになります。
そして30代になった頃には東京小石川にて歌塾の萩の舎を立ち上げました。萩の舎は上流・中流階級の女性達を含め、門弟が1000人超もいた時期があるなど、隆盛を極め、その成果から、中島歌子は晩年、日本女子大学の教授にと声を掛けられたこともあったと言われています。しかし病のため断り、まもなく1903年、60歳の若さで息を引き取りました。
中島歌子は林忠左衛門との恋愛が強く注目されています。
他には萩の舎にて、和歌と書で後進の指導に努めた事も、中島歌子についてよく語られている話のうちの一つなります。
萩の舎では『たけくらべ』や『暁月夜』が知られている樋口一葉。『御垣の下草』や『心づくし』などが有名な税所敦子と言ったように、後世に知られる女流作家を輩出している所に、近代女性文学の礎を作ったと言った観点。それに林忠左衛門との恋愛など、特に女性達の間で共感を集めています。
ちなみに中島歌子の半生を、2013年に朝井まかてが歴史小説『恋歌』として発表。
史実の中島歌子においては、捕らえられたその日も歌を詠んでいた記述がある所から、いかに作品に情熱を持っていたかが伝わります。
代表作
1908年発表の萩の舎の生徒達によって遺歌集である『萩のしつく』。林忠左衛門と結婚した時の出来事を綴った『秋の道しば』などがあります。
ちなみに『萩のしつく』では“よしさらは月もまつへし山桜はなの木かけに日はくれにけり“の一文が有名です。
■天狗党の乱
水戸藩の尊攘派による反乱で1864年に起こりました。その活動を良しとしない人達から「身分が低い生まれなのに、表立って主張したのが気に食わない」と見なされ、天狗党と言う呼び名が付けられています。
■池田屋
水戸徳川家及び水戸藩士がよく利用していた宿です。中島歌子の父が水戸藩の郷宿池田屋の養子となった関係で、歌子自身も生まれ育つこととなり、萩の舎はその近くで開きました。