三島中洲は1830年に岡山県で生まれました。幼少期に父を亡くしましたが、学問に打ち込み、寺子屋や知人より習字、四書五経などを学んでいきます。10代半ばに入門した儒家の山多方谷の私塾・牛麓舎では陽明学を学びながらのちに塾長になるまでとなり、忙しい師に変わって教鞭を執りました。その後も知識を深めることに努め、詩文や文学を学びながら28歳で上京。この時には備中松山藩の藩士となっていましたが、藩の許しを得、江戸幕府の教育機関であった昌平坂学問所で約1年間、遊学しています。
翌年には帰郷し、1861年には藩校である有終館の学頭となったほか、のちに藩内で自身の漢学塾を開校しました。多数の藩から生徒が通い、常時50人以上の生徒がここで学んでいたと言われています。また、この間に再び江戸を訪れた際には一時、昌平坂学問所の詩文掛も担っており、藩内外での功績によって名が広まると、三島中洲が40代手前の頃には明治政府より出仕の命が下されました。
以降は大審院判事や、東京大学文科大学古典科の教授、宮侍講として皇太子の教育などの要職を務める一方で、現在の二松學舍大学の礎となる漢学塾の二松学舍を設立。勲二等瑞宝章を授かったほか、82歳の時には宮中顧問官ともなりましたが、1919年、90歳で息を引き取っています。
このように三島中洲は幼少期から優秀な学徒として勉学に励んでいました。塾長として牛麓舎塾生や有終館の学頭、二松学舍の立ち上げや東宮侍講を通して教えていると言ったように、様々な人々を教えてきた所に特徴があります。
また有終館にいた期間には藩の政治にも加わり、藩主の板倉勝静を支えました。
三島中洲は二松学舎を立ち上げた事で漢文学界を支え、同校からは夏目漱石や吉田茂、嘉納治五郎などを輩出しています。
他にも実業家として名を馳せ、文化普及や外交も行った渋沢栄一と交流をした事で、渋沢栄一が『論語と算盤』や『論語講義』を発表。
さらに宮中から多大な信頼を寄せられているなど、日本の将来を担う人物に対し、大いに影響を与えたと言えます。
代表作
1898年発表の『中洲文稿』と1876発表の『霞浦游藻』(共に国立国会図書館が所蔵)
その他に『論学三百絶』や『詩書輯説』などがあります。
■山田方谷(やまだほうこく)
陽明学者で幼い頃からその才能を注目され、藩にて務めた際は元締役兼吟味役として多額にあった負債の返済のみならず、備蓄をも生み出しました。
その手腕は多くの人に知れ渡り、長岡藩の河井継之助や長州藩の久坂玄端も訪れ、受講者は述べ1000人以上もいたと言われています。
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