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2020.08.27
骨董品

高山樗牛【文芸評論家/山形県/書/文学博士】

高山樗牛(たかやまちょぎゅう)

高山樗牛は1871年1月に山形県で生まれました。ちなみに本名は斉藤林次郎と言い、父親は旧庄内藩士でもあります。少年時代から、主に小学校の生徒の作文を載せていた雑誌『穎才新誌』や、地元の新聞に文章が掲載されると言ったように、幼い頃から文章について優れた才能を示していました。

その後1893年に帝国大学文科大学哲学科に進学。在籍時の1894年に匿名で応募した読売新聞の懸賞にて、平家の滅亡を背景に悲愛模様を描いた小説『滝口入道』がトップの成績で入選となります。これをきっかけに1895年には上田敏らと共に『帝国文学』などを出し編集委員としても活躍しました。大学卒業後は第二高等学校の教授を務めたり、出版社である博文館へ入社しています。多くの評論を手がけたほか、森鴎外と論争を繰り広げるなど文壇を賑わせました。

これらの功績が認められると、1900年、文部省からの依頼で美学について研究を深めるための海外留学が決定。この時、帰国してからは京都帝大の教授を任される事も約束されていたのですが、肺結核を患ったことで留学を諦めざるを得なくなります。以降は東京大学の日本美術講師として定期的に教壇に立ち、論文の発表などによって文学博士号を授かっています。

 

そして1902年12月、31歳の若さで息を引き取りました。

 

 

高山樗牛の作品の特徴は?

高山樗牛の文学作品には総じて当時の、特に若い世代に強く共感された所に特徴があります。活動初期は日本主義を発表し、またロマン主義も唱えた事で多くの支持を獲得する事になりました。

しかしニーチェの影響も強くあり、1901年発表の『美的生活を論ず』などでは本能満足説及び個人主義を提案するようになっていきます。続いて活動終盤時期には、田中智学がきっかけで日蓮主義を提示。実際に高山樗牛自身が個人的に日蓮について思いを発言していたようです。

一貫性が感じられないと言った指摘も現在はなされていますが、当時においての影響力や話題性は高いものだったと言われています。

 

 

高山樗牛の作品の他の評価部分は?

高山樗牛の支持は『太陽』によって確立され、その文章は気品があふれるものだと言われています。なお『滝口入道』以来小説は書いていません。

ちなみに高山樗牛の考えは、支持一辺倒ではなく否定的な声もあったようです。

 

代表作

 

『太陽』や滝口入道以外に、『わが袖の記』は1897年に公開。数々の雑誌で掲載された高山樗牛の随筆が掲載されており、ロマン主義溢れる文章で人気を獲得しました。その他には『人生終に奈何』などがあります。

 

 

各ワード紹介

■日本主義

海外に影響された欧化主義に反して、日本が本来持っているものを国家や社会の基盤として培っていくと言う考えです。

定義についての考え方は少しずつ変化しており、集団主義に思えて個人主義なのが日本主義では?と言った論争も現在はなされています。

 

■上田敏(うえだびん)

高山樗牛とほぼ同時期に、詩人、または評論家として活躍しました。ヨーロッパ文学の翻訳に力を入れ、熱心に日本に紹介しました。森鴎外と親しく交流し、東京大学や明治大学、京都帝国大学など多くの学校で教鞭を執っています。

 

■田中智学(たなかちがく)

日蓮宗を辞め日蓮主義を唱えた1861年江戸生まれの宗教家です。国柱会や日刊新聞の「天業民報」などで考えを発表しました。