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2020.05.22
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鈴木華邨【日本画家】

鈴木華邨(すずきかそん)

 

鈴木華邨は1860年に江戸下谷池ノ端茅町にて

 

呉服商を営む武蔵屋の息子として生まれました。

 

10代半ばから、絵師の池田容斎の弟子として

 

有名な中島亨斎(きょうさい)に、

 

主に人物画や円山派について学び、まもなく

 

第1回内国勧業博覧会において出品した

 

『金図案』で 花紋賞メダルを獲得します。

 

また1881年の第2回内国勧業博覧会でも

 

『群亀図』が褒状を授かりました。

 

こうして画家として作品制作に打ち込み

 

1887年からは書籍の口絵や挿絵なども制作。

 

1889年の新小説第一号の表紙絵は

 

よく知られたものとなります。

 

また30代の頃には

 

石川県立工業学校にて教師として務め、

 

そこでは絵画と図案意匠について教えたほか

 

1898年には仲間の画家たちと

 

日本画会を設立しました。

 

その後、パリ万国博覧会にて『山水』と

 

『雪中鷹狩』、『月下魚網』 が銅牌を受賞し

 

国際的にも名を広めることにも成功。

 

1901年には春の院展の第5回にて

 

銀賞を獲得するなど活躍を続け、

 

1919年、60歳で息を引き取っています。

 

 

 

作風

 

鈴木華邨は円山派に四条派や土佐派。

 

また浮世絵のテイストを緻密かつ写実的な

 

タッチで描いていることで知られています。

 

他にジャンルとしては風俗や

 

花鳥図についても手掛けてきました。

 

鈴木華邨は努力を行ってきた人物

 

と言われていますが、幼少期には

 

漆器などの図案も描いている

 

と言った才能の持ち主でもあります。

 

 

 

 

作風についての関連用語の細かい解説

 

・円山派

 

日本画の一つでもあり、京都の円山応挙を

 

始まりとして江戸時代中盤から後半まで活躍。

 

写生画での受け入れられやすい作風は、

 

京都にて支持され「円山派」

 

と言う呼ばれも獲得しました。

 

・四条派

 

同じく京都の画家の松村月渓を始まりとし

 

円山派の作風に水墨による

 

柔和なタッチの南画のテイストを加えています。

 

江戸時代後半から明治にかけて

 

京都にて盛り上がりました。

 

・土佐派

 

平安時代から続いている系譜の

 

大和絵を受け継いだ日本画の一派です。

 

安時代中盤のの藤原基光を始まりとし

 

江戸時代終盤まで

 

狩野派と並ぶ存在として続いていきました。

 

 

 

指導者としても優れた鈴木華邨

 

海外では特に欧州地方で、

 

葛飾北斎に続く新たな日本画家と呼ばれるほど

 

大成した鈴木華邨ですが、

 

指導者としても多大な貢献を果たしました。

 

1898年の本美術院の設立で評議員となり

 

また率先して後進を集め育て

 

その中で自身の息子を弟子の梶田半古に

 

学ばせたと言われています。

 

なお趣味も幅広く、浄瑠璃音楽舞踊好きだった

 

という側面もあったそうです。