西村五雲(にしむらごうん)は1877年11月に京都で生まれました。なお本名は源次郎と言います。若い頃から絵に興味のあった西村五雲は、1890年より住み込みしながら日本画家の岸竹堂(きしちくどう)に弟子入り。ここで腕を磨き、3年後に日本美術協会の場に初めて出品した作品『菊花図』が入賞となりました。これを皮切りにその後も受賞を重ねていきますが、20代前半の頃には竹内栖鳳の弟子となり、1907年、記念すべき第1回となる文部省美術展覧会において『白熊(咆哮)』が三等賞を獲得。4年後の第5回文部省美術展覧会において発表した『まきばの夕』は褒状と同時に宮内庁の購入作品に選ばれました。
以降は自身の作品制作や発表と並行しながら、西村画塾を開校し後進の育成に務めたり、さらに1913年には京都市立美術工芸学校の教諭に就任。この間に心労から神経衰弱を発症しますが、その後も帝国芸術院の会員となるなど晩年も画壇で活躍していきます。
そして1938年9月、62歳で息を引き取りました。
西村五雲は動物画と花鳥画を得意としています。特に動物画は高い写実性をもって描かれており、生き生きとした、微笑ましい光景の中に猿やカタツムリなどを表現していると評価されています。
また一方で、総合的にみると師匠・竹内栖鳳の技法が受け継がれているとも言われています。
西村五雲の写実性があり瑞々しいといった作風は、竹内栖鳳と濃く共通する部分があると言われています。とは言え西村五雲は竹内栖鳳とはまた違うアプローチで描いており、より洗練されていると言った評価もあります。
こうしてみると西村五雲の作品を沢山見たくなる所ですが、西村五雲本人は元々病弱であるため作品数がそれほど多くありません。ですが小品は多く発表していますし、それに後進の育成に強く関わっている所も西村五雲の評価部分として大きく見られています。1938年に西村画塾を晨鳥社と名を改めた際には、後に名を残す山口華楊が在籍し、さらに次男の西村卓三も日本画家として活躍しました。
他の代表作
1931年発表の『日照雨』(東京芸術大学大学美術館が所蔵)
1932年発表の『秋茄子』(宮内庁三の丸尚蔵館が所蔵)などがあります。
■岸竹堂
1826年に滋賀県で生まれた画家です。
明治維新が起こる前に中島安泰や狩野永岳から教わり、明治維新後には絵画共進会や内国勧業博覧会などで活動を繰り広げます。四条派をベースとして西洋画の写実性を採用していきました。
■竹内栖鳳
1864年に京都で生まれ、“東の大観、西の栖鳳”として、明治から昭和に跨ぐ京都画壇の代表画家となりました。
円山四条派に西洋画を取り入れ、当時日本に馴染みのなかったライオンやトラを描くのみならず、猫や鹿など日本で馴染みの深い動物を題材とした作品も発表していきました。