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2020.05.08
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藤堂高潔【日本画家】

藤堂高潔(とうどうたかきよ)

 

藤堂高潔は1837年9月に伊勢国津

 

(現在の三重県)で生まれました。

 

なお父は伊勢国津藩主で、

 

藩で設置する平民の学問所である

 

郷校修文館を創った事でも知られてい

 

藤堂高猷です。

 

藤堂高潔自身も従四位下侍従や大学頭などの

 

要職を務めたりした他、1863年に

 

中山忠光が尊王攘夷を企てた天誅組の変。

 

また池田屋事件などがきっかけで、

 

長州組が会津藩主の松平容保に反抗した、

 

1864年の禁門の変の際など

 

これらの事件の時には京都の護衛に渡ったり、

 

1868年の鳥羽伏見の戦いでは

 

政府軍として桑名城を襲撃するなどして

 

活躍しました。

 

この間、1864年には左近衛権少将として務め

 

鳥羽伏見の戦い後は

 

藩政の改新を先導するなどしています。

 

やがて1871年に病気となった父の代わりに

 

藩知事となりますが、

 

まもなく廃藩置県の為に解かれ

 

1889年、52歳で息を引き取りました。

 

 

 

芸術家としての側面

 

芸術家としての藤堂高潔は、

 

絵については数多くの技法を学び

 

特に西洋画を取り入れた作風で知られている

 

渡辺崋山から学んだ事は有名で、

 

花卉図に優れていると言われています。

 

なお詩や和歌、能にも優れており

 

特に能は免許皆伝とも言われるほど長けており

 

歌御会始の奉行も行ったり自身の弟や、

 

華族で福岡藩主の黒田長知の家にて、

 

十四代目の喜多六平太に教えています。

 

・喜多流の復興にも大きく関わる

 

なお藤堂高潔は喜多流の復興にも

 

大きく関わっていると言われています。

 

喜多流とは喜多七太夫長能を始まりとして

 

1619年に将軍・徳川秀忠によって認められた

 

能の流派です。

 

徳川家茂の活躍とともに

 

栄えるなどしていきましたが、

 

幕府解体となる明治維新によって

 

その勢いを失います。

 

しかし代を継ぐなどして続けていき

 

当時幼かった十四代目・喜多六平太に

 

藤堂高潔は親身になって教えたことも

 

起因となって、人間国宝を四人出す

 

と言った一大流派として続いていきます。

 

 

 

芸術を愛した藤堂一族の中の藤堂高潔

 

藤堂一族は元々芸術を愛し

 

様々な画人が誕生したと言われています。

 

芸術家としての藤堂高潔の功績は

 

あまり多くの人に

 

知られていないかもしれませんが、

 

数多くの試みを行ってきた事が

 

大いに伝わります。

 

なお藤堂高潔の詠った歌は『草陰和歌集』

 

『大八洲歌集』。

 

画家としては『三重県の画人伝』に

 

まとめられています。