石崎光瑶(いしざきこうよう)は1884年4月に富山県福光町で生まれました。なお本名は石崎猪四一と言います。家庭環境に経済的な余裕があった石崎光瑶は、幼い頃からその才能を経済的に圧迫される事なく発揮出来ており、12歳から東京出身の琳派絵師である山本光一に学んでいました。その後、山本光一自身が薦めてくれた事で、1903年からは京都の近代日本画を代表する竹内栖鳳の開く竹杖会にて教わるようになります。そこでは写生の技術を磨くと同時に、作家性について考える事を教えられるなどして腕を磨き、1912年の文部省美術展覧会において出品した『薫園』は初入選を果たしました。また、約2年後に開かれた第8回の文部省美術展覧会では出品作『筧』が褒状となると同時に、宮内省購入作品に決定しています。
やがて1916年、30代前半の頃には数ヶ月間インドを訪れ、またインドにもまたがるヒマラヤ山脈を登ったり、古墳や熱帯エリアを観察。この取材中の経験は作品の制作に大いに活かされ、1918年の第12回文部省美術展覧会に出品した『熱国妍春』と、翌年の第1回帝国美術院展覧会に出品した『燦雨』は特選を連続獲得しました。なお30代の後半になる頃にはヨーロッパエリアにも訪れ、1933年に再びインドへ訪問。高野山金剛峯寺貴賓室の為の襖絵は、この時の現地での経験が活かされた作品だとされています。
41歳の時には京都市立絵画専門学校に教員として就任し、さらに50代になると帝国美術院会員として務め、私塾の石崎塾も開きました。そして1947年3月、63歳で息を引き取っています。
石崎光瑶は写実性に優れた、カラフルな色合いの花鳥画にまず特徴があります。なお活動初期は琳派の影響が強い装飾性の高い作風を展開していきましたが、数々の海外旅行を経て海外の構築された技術を当て込むようになった事で、近代日本画として昇華させていきました。
石崎光瑶は細やかでカラフルな花鳥画が知られている伊藤若冲に惚れ込み、鶏図作品の模写も行っていました。その為に1926年には雑誌『美の国』や『中央美術』にて、伊藤若冲についての考えを載せていると言った事もしています。
他にも国外への旅行だけでなく金沢などを始めとした国内にも訪れていたと言う記述も残されています。
代表作
1919年のインド旅行時の熱帯エリアを描いた第1回帝国美術院展覧会で特選となった『燦雨』(南砺市立福光美術館が所蔵)。
1922年の第4回帝国美術院展覧会で発表し再度のインド旅行の成果物でもある『白孔雀』(大阪中之島美術館が所蔵)などがあります。
■山本光一
1868年に東京で生まれ、父と祖父から学び様々な種類の作品を描いていきました。
■琳派
桃山時代後半から誕生した絵師集団です。絵画のみならず工芸品や書まで携わっています。総じて華やかな作風が特徴となっています。