甲斐庄楠音は1894年に京都で生まれました。鎌倉時代の終わりから南北朝時代まで活躍し、御祭神としても祀られる武将・楠木正成の一族として育っています。そのため恵まれた環境の中で育ちましたが、喘息持ちであったことで体は強くなく、中学に進学すると、絵画に興味を持つようになりました。
まもなく同校からは転校し、甲斐庄楠音は京都市立美術工芸学校図案科にて竹内栖鳳などから学んでいきます。1912年には京都市立絵画専門学校へ進み、1915年に卒業。それからは日本画家の川北霞峰からも学び、1918年の第1回国画創作協会展において『横櫛』を発表。作品は話題を呼びますが、甲斐庄楠音を推していた村上華岳と他の人の作品を支持していた土田麦僊によって審査議論になった末、両作品共に未受賞となりました。しかしながらこの一件で画家としての名が広まり、才能を認められたこともあり、1922年の帝国美術院展覧会では『青衣の女』が入選。1924年には国画創作協会の会友になり、2年後の同展で『歌奴』や『裸婦』などを発表し同時に会員に認定されます。
やがて1928年、新樹社に加わっていますが、国画創作協会や新樹社の解散や拒否などが起因して、画家活動は一時積極的でなくなりました。一方で40代中頃になると、映画監督・溝口健二からの誘いで、溝口健二の作品中の衣装や風俗考証を手掛けるようになり、衣装デザインの分野でも才能を現します。
50代では再び画業に戻り、作品の発表や展覧会への出品などもしますが、全盛期に比べ、作品数は多くはありませんでした。
そして1978年、83歳で息を引き取っています。
甲斐庄楠音の作品は、日本画壇内に位置しながらも、西洋的な写実性表現や、大正時代の廃れた雰囲気を作品に取り込むことで、女性の、強く妖艶な美しさを表現している点が特徴と言えるでしょう。
また、その表現で女性ならではの生々しい内面を描いている、と言った指摘もあります。
1918年第1回国画創作協会展における『横櫛』は、着物の羽織を脱ぎかけている女性が意味深な雰囲気でこちらに向けて微笑んでいる、と言った作品です。
甲斐庄楠音自身は美人画を専門に扱うつもりでしたが、ただただ美しい事が求められる当時の美人画において、妖しげな雰囲気を出す美人画は異端で、批判の声が数多くありました。土田麦僊がその否定派の代表的存在とも言え、作品を『汚い』とも酷評しています。
一方で、甲斐庄楠音自身は、同性を好きだったり女装趣味であった(その写真も残しています)と言われており、その影響が少なからず作品にも表れているのではないかとの指摘もあります。
代表作
1921年第4回国画創作協会展で発表の『舞ふ』
1927年第6回国画創作協会展で発表の『娘子』(いずれも京都国立近代美術館が所蔵)
1928年発表の『椿姫』などがあります。
■村上華岳(むらかみかがく)
自然風景や人物、仏画を描いた日本画家です。多方面から要素を取り入れた近代的雰囲気の日本画を描き、作品は宗教性も強く、特に線に拘りを見せた点から「線の行者」と呼ばれています。
生まれつき体が弱く、特定の美術団体に属さず、京都画壇から一定の距離を置いた時期もありました。
■土田麦僊(つちだばくせん)
京都日本画壇を象徴する存在で、村上華岳や小野竹喬など共に国画創作協会を設立。
官設美術展などでも活躍し、西洋絵画とオーソドックスな大和絵を組み合わせた近代日本画の道を切り開きました。
■国画創作協会
1918年に若手京都画壇の作家達によって結成された美術団体です。
既存のものに縛られない自由な活動を念頭に置き、1925年に洋画を加えるなどしましたが、1928年に活動を終了しました。