平田郷陽は1903年に東京都で生まれました。
父は人形師の安本亀八の弟子であり
平田は14歳の時から父に人形制作を学び
「活人形」の技法を習得していきます。
そして21歳の時に、父の跡を継ぎ
二代目郷陽を襲名しました。
端正なつくりの作品を制作する傍ら
25歳の時には創作人形を作る同士らと
人形の研究会「白沢会」を結成します。
さらに1935年には日本人形社を設立しました。
翌年には第1回帝展に出品した
「桜梅の少将」が入選を果たし
これを皮切りにその後も帝展、日展、文展などに
出品を重ねていきました。
そして1955年、これらの活躍が認められ
52歳の時に衣装人形の分野で
重要無形文化財保持者に認定されています。
また、1968年には紫綬褒章を受章しました。
もともと、「生人形」を制作していた人形師の父から
「生人形」造りの技術を厳しく学んだ
平田郷陽の作品は、まるで生きているかのような
人形、人間の生身を限りなく忠実に表した
「生人形」を制作しました。
人形芸術運動の中心的存在として
人形制作家を芸術家の域にまで高め
戦後は女性の姿やいきいきとした子供達の姿を
人形制作の題材にして
その優雅な造形美で人々を魅了しました。
清潔な色香溢れる、表情豊かで写実的な表現が
平田郷陽の特徴と言えます。
初期の作風は、生人形らしい写実的な作品でしたが
次第に抽象的なデフォルメを加えるようになり
徐々に様式化、単純化した作風に
変わっていきました。
しかし、その作品には一本筋の通った
確固たる存在感がありながら
初期から続く繊細な美しさ
豊かな感情表現が活かされています。
平田郷陽が人形制作を始めた初期の時代
まだ人形は芸術の域に達していない
とされていました。
そこで、平田は同士たちと
「白沢会」を結成するなど
人形制作が芸術として認知されるように
尽力していきます。
さらにその制作活動は高く評価され、
各展で賞を受賞したり、ベルギーやフランスなど
国外で開催された万国博覧会にも
その衣裳人形が出品されるようになりました。
また、日本工芸会の理事や同人形部会長を歴任し
衣裳人形研究の「陽門会」を主宰するなど
後進の育成にも力を注ぎました。