帆足杏雨(ほあしきょうう)
帆足杏雨は1884年5月に大分県豊後で生まれました。
南画の師匠としては同じ大分県出身で
谷文晁の教えや明・清画について学んだ事で
自身の作風とした田能村竹田。
山水・花鳥画が有名で、書道や詩文でも
優れた才能を見せた浦上春琴がいます。
なお儒学・詩文を『窮理通』や
『医学啓蒙』などが知られている帆足万里。
『遠思楼詩鈔』や『約言』
などか知られている広瀬淡窓。
『日本政記』や『山陽詩鈔』などが知られている
頼山陽などから学んでいます。
このように学んでいるのは、
帆足杏雨の実家に古くから書画があり
その為に田能村竹田や頼山陽などが
訪れていた背景もあります。
他にも帆足杏雨は若い頃には
京都と大阪に行って学びを深めました。
・代表作を含む活動履歴
帆足杏雨は1844年から四年間
朝廷からの依頼で作品を製作しています。
また活動終盤の1873年になると
ウィーン万国博覧会の場において
『耶馬渓図』を発表し、幕末明治時代の象徴する
文人画家となります。
作品としては1842年に発表した『松下納涼図』。
1854年に公開した『李青蓮詩意山水図』
などがあります。
作風
帆足杏雨は山水画の作品がよく知られています。
活動当初は田能村竹田の作風を思わせる作品を
描いてきましたが、
中国の明や清時代の時の絵画を学んだ経験もあり
穏やかな雰囲気の作品を発表するようになります。
なおそれは帆足杏雨自身が
生まれ育った環境で培った人柄にも来ている
と言われています。
文人画家の田能村竹田と帆足杏雨の人となり
江戸時代後半に差し掛かると
藩のお抱え絵師集団として活躍していた
狩野派の作品は、パターン化し
創造性に欠けるものとなっていました。
そのため学問や芸術を愛する文人達は
中国から来た南画の方を好むようになり、
豊後の場でも画家達が求められる主流は
南画風となりました。
こうして豊後の南画が様々な画家達によって
作られるようになりましたが、
田能村竹田によってその人気は
決定的なものとなっていきます。
田能村竹田は
「画家としているより、技術を追求する
一人の人間としている事が大切だ」
と説いた人物でもあり、深い教養と
しっかりした生活で人気を獲得するようになります。
また田能村竹田の作風を
正統的に受け継ぐ帆足杏雨は、
様々な人に影響を与えた豊後南画を盛り上げた人
と言われていますが、帆足杏雨自身の性格は
彼の描く自然画にも現れているように
穏やかで、周囲には多くの人が集まりました。
田能村竹田やその弟子の帆足杏雨が伝えたのは
作風だけではなく、人格でもあるといえます。