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2021.01.21
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尾崎放哉とは【俳人/代表作/書】

尾崎放哉(おざきほうさい)の生い立ちは?

尾崎放哉は1885年に鳥取県で生まれました。1897年に中学に進学し、学生の頃から俳句を好み、1900年には学友会雑誌『鳥城』に俳句を投稿しています。また同時に山崎甚八や岩田勝市などと共に、芹斎会を設立して和歌も発表しました。その後17歳の頃には、友人であった福光美規や西谷繁蔵などともに単行本『白薔薇』を制作。まもなく俳人の荻原井泉水が立ち上げた一高俳句会の活動にも参加しています。

1905年には東京帝国大学法学部へ入学しますが、積極的な作品作りの姿勢は続き、学生時代には俳句雑誌『ホトトギス』や『国民新聞』などに作品を投稿。ちなみにこの頃は従妹との結婚も考えていたのですが、周囲から賛同の声は得られませんでした。

やがて24歳で同校を卒業し、日本通信社に就職しますが一か月ほどで辞め、1911年に東洋生命保険会社に入ると同時に従妹とは別の女性と結婚。社内で功績を積みながら、自身の俳句の制作活動も継続しており、1915年には荻原井泉水の『層雲』に投稿しています。

以降、自由律俳句に強く興味を持ち、より制作活動に打ち込む一方で、1921年には務めた職を退任。次の年には朝鮮火災海上保険会社の支配人として務めるようになりますが、翌年には辞め、満州から帰ると離婚し、復職はせず、様々な寺に頼るようになりました。

 

晩年は暮らしに困りながらも俳句三昧の日々を過ごし、1926年、41歳で息を引き取っています。

 

 

 

尾崎放哉の作品の特徴は?

尾崎放哉は575のリズムに囚われない、また季語を使わないと言った内容の自由律俳句にて、独自性を生み出した所に特徴があります。

その俳句は『層雲』での発表時代から現れ、自身の日常を自分の肉体を媒体に表現しているとされており、生涯で延べ3千句ほどの作品を生み出しました。

 

 

 

尾崎放哉はどのような部分が評価されているのか?

尾崎放哉は放浪の俳人とも呼ばれており、東京帝国大学法学部から保険会社にて位の高い役職に就くなど、一見充足した人生を送っているように感じます。

しかしそれを破棄するような選択して、そこから満州や寺など各地を回っていきました。

また人間関係が信じられなくなる時期を大学時代に体験し、酒癖もひどく、それで保険会社の任務を解かれてもいます。また、第一次世界大戦の勃発とその影響で、自身の務める会社の経営が傾く事態が発生したりもしました。

尾崎放哉ならではの、学生時代からの多感な感性でこういった経験を感じ取り、それを活かした俳句を発表しているところに、作品が支持される背景があるといえるでしょう。

なお尾崎放哉は種田山頭火と並んで、自由律俳句の代表作家と呼ばれており、1924年頃から様々な寺に頼るようになった時期は、その自由律俳句の力もますます強めたと言う指摘もなされています。

 

代表作

 

『咳をしても一人』や『こんなよい月を一人で見て寝る』、『一人の道が暮れて来た』

最後の句となる『春の山のうしろから煙が出だした』など。

また1923年に入院した際に、妻に書かせた手記の『無量寿仏』もあります。

 

 

 

各ワード紹介

■荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)

俳人で河東碧梧桐とで新傾向俳句を提案し、門人として種田山頭火や尾崎放哉がいます。尾崎放哉をよく気にかけていたことが知られており、務めを辞め妻とも別れた後、尾崎放哉に西光寺の南郷庵に住むことを提案しました。

 

■種田山頭火(たねださんとうか)

1882年に生まれ早稲田大学に入りますが、精神的な病状を理由に中退。尾崎放哉に強い興味を持ち、自身も自由律俳句を発表します。

また尾崎放哉と同じ様に荒んだ生活を送っていました。