吉川英治は1892年に、神奈川県で生まれました。なお本名は吉川英次と言い、ペンネームの英治の字は、出版社の誤りから生まれたものだと言われています。
吉川英治は貧しい幼少期を過ごしており、11歳の頃に小学校を中退。船具工を経験したり、蒔絵師に弟子入りするなど職を転々とする少年時代を過ごしました。この間には川柳作家の井上剣花坊と知り合う機会があり、川柳の制作を開始しています。その後22歳の年に『講談倶楽部』上にて投稿した『江の島物語』が当選。1920年には中国の大連に出向きましたが、翌年、現地に滞在中に講談社に送った3篇の小説が入選を獲得し、同じ年に東京毎夕新聞社に入社することとなりました。同社では新聞小説『親鸞記』を161回に渡って連載していましたが、会社からの指示で無記名で発表。なお1923年に起こった関東大震災の影響を受け、同新聞社は解散しています。
しかし、以降も吉川英治は作家活動に打ち込み、講談社で作品を発表。特に1925年から雑誌『キング』において連載した、『剣難女難』は大きな人気を博しました。また毎日新聞からの依頼がきっかけとなり制作した長編小説『鳴門秘帖』は映画化もされ、そのほか40代の頃に発表した『親鸞』、そして『宮本武蔵』、『三国志』の連載は吉川英治の代表作ともなっています。
第二次世界大戦の戦時下では軍の戦史の編集に携わり、戦後は一時期間をおいて作家活動を再開。連載小説を多く手がけ、1953年には菊池寛賞。1960年には文化勲章受章者となりました。
そして1962年、70歳で息を引き取っています。
吉川英治は『太閤記』や『新・平家物語』など、数多くの歴史小説を発表した所に特徴があります。
1929年に世に発表した『貝殻三平』や1933年発表の現代小説『あるぷす大将』など、様々なジャンルの作品を提示してきましたが、1935年に世に出した『宮本武蔵』を皮切りに歴史小説家として方向性を強めるようになったと言う指摘があります。
また歴史小説としてもキャラクター性を前面に押し出しているのも特徴の一つで、全部で短編は180編ほど、長編は80編ほどの作品を発表しました。
吉川英治は戦前から戦後を代表する作家として活躍し、1926年発表の『鳴門秘帖』は幾度となく映画化。
また1991年には『私本太平記』が『太平記』として。『宮本武蔵』は2003年に『武蔵 MUSASHI』として、共にNHKで大河ドラマとして映像化されています。
また1962年に吉川英治賞が作られ、現在も吉川英治文学賞が設けられているなど、その名声は受け継がれています。
代表作
1950年から1957年まで『週刊朝日』上で発表された『新・平家物語』。
1929年発表の伝奇小説『万花地獄』などがあります。
■キング
講談社にて発表された国民雑誌です。1924年に発表されましたが、発行時から好評で創刊号も出版。発行部数100万部超と言う記録を達成しました。
老若男女に向けた雑誌作りが意識されており、バラエティ豊かな内容となっています。
ですがキングと言う名前は当時の世相とは上手く噛み合わず名前を変更するなどの歴史を辿り、1957年についに廃刊となりました。