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2021.01.21
骨董品

原敬とは【政治家/功績/評価】

原敬(はらたかし)の生い立ちは?

原敬は1856年に岩手県で生まれました。父は南部藩士で、祖父もまた南部藩にて家老を勤めていたという環境であったため、若い頃から軍学について教えられています。しかし、10代半ばの頃に家が盗難の被害に遭い、学費に苦難した原敬は、無料だった神学校へ進学。カトリック神父の下で学び、文学やフランス語など多方面に学び続け、1876年には司法省法学校へと入りました。

在学中は良い成績を取っていた原敬でしたが、入学した翌年、寄宿舎に関する不満を訴えた騒動が原因となり、同校を退学することとなってしまいます。

そのため、義父の助けで同じ年に郵便報知新聞へ入社。フランス語の翻訳や、のちに官僚となる渡辺洪基と共に全国を旅するなどしましたが、同社が買収されたのちの1882年に退社しました。その後は一時期、大東日報の主筆として活躍。1年未満でそこから去るものの、政治家の井上馨や井上毅に注目されたのをきっかけに、外務省の公信局として務め始めます。

こうして役人として勤めるようになった原敬は、1883年に清国(現在の中国)の在天津領事を任せられ、2年後にはパリ公使館の書記に。やがて1889年には農商務省に勤めますが、陸奥宗光大臣から能力を高く評価された事で彼の秘書官となりました。1892年には陸奥宗光が勤務を降りた事を受けて、自身も農商務省から退きますが、以降もいくつかの役職を務めています。

40代の始めには大阪毎日新聞社の社長になると同時に、伊藤博文が中心の立憲政友会の設立に参加。そのほか内務大臣兼鉄道院総裁や内務大臣としても務め、1918年に総理大臣となるのですが、在任中でもあった1921年に殺害され、66歳で息を引き取りました。

 

 

 

原敬の活動の特徴は?

原敬はこのように、30代になるあたりから政治職に落ち着くようになるものの、新聞社から政治職に転ずると新聞社の社長にも就任し会社を盛り上げ、再び政治の世界に身を置くなど、政界だけでなくいわゆるサラリーマンや事業者としても活躍している所に特徴があります。

そのほか大阪北浜銀行のリーダーや、古河鉱業の副社長も務めています。

 

 

 

原敬はどのような部分が評価されているのか?

原敬は、農商務省時代に陸奥宗光からの評価を受けた事。また大正時代の政治家の中でも爵位がなかった事から、当時は平民宰相の名で民衆から親しまれた事なども、評価の一部といえるでしょう。

またこの評価は藩閥政治と呼ばれる薩摩や長州。土佐や肥前で行われる政治に、異見を述べる政党を立ち上げた所からも来ており、歓迎されました。

しかし就任後は当時の民衆の望んだ普通選挙法は施行されず、社会運動を行う人には処罰を掛けた所が、殺害の理由になったとも言われています。

一方で交通整理や教育の充実に努めている面もあり、全面的に民衆の期待を裏切っているというわけではありません。

 

関連書

 

原敬自身によって書かれた和歌や俳句などを原敬記念館が所蔵。

また1892年に原敬を外務省通商局長にする任命書などを、外交史料館が所蔵しています。

 

 

 

各ワード紹介

■陸奥宗光(むつむねみつ)

1844年に生まれ尊王攘夷運動に加わった後に、外交官としても活躍しました。

政治家としては条約改正や下関条約締結に携わり、その高い能力からカミソリ大臣と言われています。