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2021.01.07
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井上円了とは【哲学者/偉人/教育者】

井上円了(いのうええんりょう)の生い立ちは?

井上円了は18582月に越後(新潟県)で生まれました。また実家は東本願寺の末寺である慈光寺です。その生まれから、系統の真宗大谷派について教わり、10歳の頃には石黒忠悳が開く漢学塾に入門。また石黒忠悳自身が洋学についても詳しかった事がきっかけで、1874年には新潟学校第一分校にて洋学を学びました。

その後同校を卒業すると、京都の東本願寺の教師学校へと入ります。そこで国内留学生として認められると上京し、のちに東京大学文学部哲学科へと進学することとなりました。卒業後は文部省への就職も断り、まもなく、哲学について教える東洋大学のベースともなる、哲学館を設立。ちなみにその半年後には自宅学習を想定した教科書的な著書『哲学館講義録』を発表するなど、哲学を中心とした勉学の普及に努めています。

さらに翌年には欧米の宗教と教育について学ぶことを目的に視察旅へと出かけ、世界各地に訪問。1889年に帰国すると、宇宙主義と日本主義について展開しています。また1902年に二度目の留学を経た際には、イギリスなどで言論の自由や人格の尊厳といった内容を学ぶなど、幅広く興味を示していきました。

 

しかし次の年に哲学館内で、文部省の視学官と生徒との考えの違いからトラブルが起きたのを受けて帰国。これをきっかけに学校からは遠ざかりますが、三度目の世界視察をすると言ったように、海外の国々から学ぶことはやめようとしませんでした。

そして1919年、61歳で中国に訪れている最中に息を引き取っています。

 

 

 

井上円了の活動の特徴は?

井上円了はこのように真宗大谷派の出ということに囚われず、洋学についても学びを深め、幾度も世界を訪れて知見を獲得し、さらに哲学を広く普及させた所に特徴があります。

なお教育は幅広い人達が受けられるべきとだと考え、哲学館内での事件によって、哲学館の在り方についても見直しました。

 

 

 

井上円了の評価は?

井上円了は国内における哲学教育の先駆者と言った見方もされており、1890年から1919年にかけて全国にて講演も実施。

ここまでしたのは東京大学文学部哲学科在学中に「諸学の基礎は哲学にあり」と考え、日本の近代化も視野に入れていたからです。

 

代表作

 

哲学館での教えを記した『妖怪学講義』(第一巻は1894年に発表)。ちなみに井上円了は妖怪の存在を科学的に証明しようとしている所から妖怪博士と言う異名があります。

他には西洋の良さを讃えると共に、国内の良さも大事にするべきと唱えた『日本人』の発行。『真理金針』や『仏教活論』などがあります。