中村正義(なかむらまさよし)は1924年5月に愛知県豊橋市で生まれました。幼い頃から体が弱かったこともあり、父が提案したことがきっかけで画家になることを考えていた中村正義は、20代前半で中村岳陵が開く画塾・蒼野社へと入門。ここで才能を発揮し、次の年の第2回日本美術展覧会において、出品作の『斜陽』が初入選しています。以降受賞を重ねていきますが、体調を崩すことも珍しくなく、1952年から1957年までの間は肺結核にかかるなどして作家活動の停止も余儀なくされました。
しかし画家活動再開後となる1957年に、作品『女』を第13回日展の依嘱出品として発表。
翌年には『舞妓』で第1回新日本美術展覧会の出品依嘱になると言ったように、復帰後も活躍を見せます。その後30代半ばの頃には日本美術展覧会の審査員を務めますが、中村岳陵との関係が理由で蒼野社及び日本美術展覧会を抜け出しました。
以降はどこにも属さない形で画家活動を続けていきますが、1963年の個展である『男と女』では今までの作風とは違うテイストを積極的に提示。また1964年には小林正樹監督の映画『怪談』に携わるための作品として、五部作の『源平海戦絵巻』を手掛けます。その他にも写楽について深く学んでいたため、その成果となる著書『写楽』を1970年に発表したり、美術集団・人人会を1974年に立ち上げ展覧会を開催するなど積極的な活動を行っていきました。晩年も東京展市民議会を設立するなどしますが、1977年4月、52歳の若さで息を引き取っています。
中村正義は“日本画家”として若い頃からその才能を見せていましたが、西洋画家たちの作品から影響を受け、当時の日本画壇ではまだ馴染みのなかった、独創的な作品を多く発表しました。
他の色が混じっていないようなカラフルな赤を象徴的に使った作品も多く、本人は様々な技法で現代の美術界や自身の今までの作品に対する挑戦を、提示してきたと言った指摘もなされています。
多くの画家が美術学校に入る中、中村正義の場合は京都市立絵画専門学校に入ろうとするのを辞めざるを得なかった事情があります。
それでも自身の病気に対して手術をする事などして戦ったり、また既存の美術に立ち向かった姿は当時や現在でも評価されており“異端の天才”と称される背景ともなりました。
なお現在でも評価の続く理由のひとつに、娘である倫子が父を追ったドキュメンタリー映画『父をめぐる旅 異才の日本画家・中村正義の生涯』を2013年に公開した背景もあります。また実際に作品を目にできる場としては、かつての住まいが中村正義の美術館として開館しました。
代表作について
1964年に発表した『源平海戦絵巻』は、中村正義としては初の歴史画かつ映画内での使用作品であるにも関わらず、大迫力に描いていると言った評判を獲得してしています。なお五部作の構成は『紅白吐霓』と『海戦』、『玉楼炎上』と『竜城煉獄』に『修羅』になっています。(いずれも東京国立近代美術館が所蔵)他に1950年の第6回日本美術展覧会において特選となった『谿泉』(豊橋市美術博物館が所蔵)などがあります。
■中村岳陵
1890年生まれの日本画家です。西洋画に影響された後に仏画や歴史画や花鳥画も描いていき、日本画と言う枠にこだわらないテイストも見せていきました。
■映画「怪談」
様々な作品を手掛けてきた小林正樹による初のカラー映画です。構想から10年かけ撮影期間は9か月の長さで作られました。
日本に伝わる様々な怪談を纏めた小泉八雲の作品から、四季になぞらえて4つのオムニバス映画として発表。
中村正義の『源平海戦絵巻』が使われたのは第三話『耳無し芳一』となります。