Shop 店舗紹介
群馬県

買取専門店 くらや 太田店

基本情報

住所

〒373-0033

群馬県太田市西本町57-4

アクセスドンドンダウン太田店内
電話0276-52-8690 (出張買取等で不在の場合があるので、事前にお電話をお願い致します)(フリーダイヤル:0120-606-588)

営業時間10:00~18:00
定休日なし
駐車場店舗東側共有駐車場 32台
許可証群馬県公安委員会許可 第421120000947号
その他の情報その他の情報は、特定商法に基づく表記をご覧ください。

買取専門店 くらや 太田店の紹介

相田 明玄
遺品整理士の認定を受けた経験豊富な鑑定士が在籍しています。
相田 明玄

くらや太田店が群馬県太田市のドンドンダウン、ゴールディーズのリサイクルモール内に2019年3月オープン!!
店舗西側には大型駐車場完備(32台可)

豊富な経験を活かし価値ある古物・美術品を見極めます。
断捨離や遺品整理で処分してしまう前にお持ちの骨董品を鑑定してみませんか?
思わぬ高額商品が眠っているかもしれません。

書画、茶道具、陶磁器、骨董品、軍装品、美術品、切手、中国切手、古銭、時計、
その他古物、アンティーク全般ぜひご相談ください。

初めてのお客様でもご安心頂けるよう、親切・丁寧・安心・ご納得のいく査定買取りをさせて頂きます。
もちろん査定は無料です。

遺品整理のお手伝いから、コレクション収集品の売却相談、空き家の残置物整理など、
様々なご相談に乗らせていただきます。
出張鑑定・買取にも伺えますのでどうぞお気軽にお問い合わせ・ご来店下さい。

買取品目

買取専門店 くらや 太田店の買取品目

遺品整理・生前整理
  • お品物まとめて高価買取
  • 遺品整理士在籍
  • 全国対応出張無料

手放す思い出 創る記憶

遺品整理・生前整理

古文書読みますサービス

読むのが難しい古文書を訳します

古文書読みますサービス

買取実績

買取専門店 くらや 太田店の買取強化ランキング

日本刀・武具

日本刀・武具

買取金額
150,000
現在の日本刀の形になったのは平安時代といわれ、日本刀はその時代の政治や文化によって、形を変えてきました。
古の時代では、象徴的な装身具として神々への奉納や位の高い人が所持するのみでしたが、鎌倉時代あたりから続く戦乱によって、日本刀は次第に武具としての需要が高まります。
この頃、日本刀は黄金期を迎え多くの名刀が誕生しました。
国の重要指定文化財に指定されているものも数多く残されています。
江戸時代に入ると、刀の長さの取締まりは強化されました。
長さを調節するため刀鍛冶の需要が高まり、技術も向上したといわれています。
また、鐔(つば)などの装飾技術も発展し、芸術的な刀装具が数多く作り出されました。
明治時代になると一般人による刀の所持は禁止され、日本刀は急速に衰退。
世界大戦が始まると軍人が所持するようになります。
この時代の刀は〈軍刀〉と呼ばれ、軍服に装備する軍装品として使用されました。
現在、日本刀の人気は高く、多くの刀コレクターが存在します。
買取でも高額査定が期待できる日本刀ですが、買取には登録証が絶対に必要です。
登録証をお持ちで無い方は登録証発行方法などのお手伝いが出来ますので、お気軽にご相談ください。
その他、甲冑などの武具全般も買取しております。
古銭

古銭

買取金額
200,000
古代の有名な古銭では、日本最古の金属貨幣の〈無文銀銭〉や銅貨では〈富本銭〉をはじめ、朝廷が発行した和同開珎など〈皇朝十二銭〉が有名です。
古くから日本は銅の産出量が多く、貨幣は銅が主流でした。
戦国時代では金山銀山の鉱山の開発が進み、精錬技術も発展。それに合わせ古銭の種類も豊富になっていきました。
時代の変化とともに金や銀が希少貨幣とされ、やがて金・銀・銅を順とした三貨幣制度が定められます。
江戸時代後半になると貿易用に銀貨が製造されるようになり、海外への銀の大量流出が深刻化しました。
幕末から明治にかけては新貨幣制度が定められ、紙幣も発行されるようになります。
江戸時代に流通していた貨幣では金の大判・小判から古銭の代表格ともいえる寛永通宝や天保通宝。
丁銀、秋田銀判、天保一分銀、安政一分銀などがあります。
古銭は、現在まで非常に多く発行され、種類も豊富です。
また、それに合わせ偽物も多く密造されていますのでご注意ください。
種類が豊富な古銭ですが、買取時にプレミアが付く古銭は多数あります。
タンスの奥深くに眠っている古銭がありましたら、ぜひご相談ください。
経験豊富な鑑定士が丁寧に査定いたします。
骨董品

骨董品

買取金額
600,000
骨董品とは、「100年以上経過した希少価値のある古いもの」で種類は基本的には問いません。
茶道具、書道具、アクセサリーなど、どんな種類のものでも希少価値があり古いものであれば、骨董品になります。
個人により骨董品の定義は違いますが、基本的には「古くて希少価値がある」ものが骨董品といわれています。
欧米各国ではアメリカで制定された通商関税法を適用し、製造から100年以上経過した工芸品、手工芸品、美術品を〈アンティーク〉と定義し、100年未満のものは「ジャンク」と呼んでいます。
また、骨董品には定価が無いことも事実です。
昔10万円で購入したものが、現在では100万円以上で買取できるものも多くあります。
その逆もあり、昔100万円で購入したものが、現在では1万円でしか買取できないものもあるのです。
骨董品にも流行があります。
その流行により、高く買取できるものが日々変わってくるのです。
「購入時は高かったから高く売れる」や「購入時は安かったから、価値が無い」という思い込みは考え直した方が良いといえるでしょう。
骨董品とは、なかなか価値の見極めが難しいお品物です。
「古いけど…価値がある?」と感じたお品物がありましたらプロの鑑定士が拝見させていただきますので、是非ご相談ください。

買取専門店 くらや 太田店の買取実績

準備中になります。

高価買取ポイント

絵画・掛け軸

絵画には「タトウ箱」や「黄袋」が付属していることがあります。また人気作家の作品では発売時に作品証明書が発行されていることがあります。購入時の付属品が一緒にあることで査定金額UPにつながります。 掛軸の場合、近現代の作家のものだと「共箱」に収まっている方が査定が高くなります。江戸時代の古画ではこの共箱がありませんが、代々家に伝わってきたものだと古い伝世の箱やお蔵の中で大事にされてきたものだと蔵番札が付いていることがあります。いづれも時代考証の役に立つものなので一緒にお持ち下さる方が良いと思います。 勿論、絵画や掛け軸では真贋が最も重要なポイントですが、古いものはではその様子もまた重要なポイントになります。 ※「タトウ箱」とは額縁などを収める箱で、作者や画廊のシール等貼られているものもあります。 ※「共箱」とは作家自身でその木箱に署名(箱書き)したものを指します。
一緒にお持ちいただけるとで査定額のアップが期待できるもの。
★箱
★作品証明書

茶道具

茶道具、煎茶道具では箱に収まっているものは必ず箱と一緒にお持ちください。例えばお茶碗だと本体・共箱(その作品のための専用の木箱)・共布が揃っています。これは茶碗本体に作家の印(陶印)があり、箱には作家のサインと印があり、近年の工芸作家のものだと茶碗を包む布にも押印されています。 また書付のあるお道具は二重箱になっているものがあります。書付とは茶道の家元や高僧が作品の名前を書き記したもので「書付箱」といわれます。書付箱は茶碗・水指・棗・香合・茶杓や掛物などあらゆるお道具に存在します。
一緒にお持ちいただけるとで査定額のアップが期待できるもの。
★共箱、共布
★書付箱、二重箱
★誂えの良い古布に包まれている場合はそのままご一緒に

宝石・ジュエリー

宝石やジュエリーでは、ダイヤモンドのグレーディングレポートや鑑別書、ブランドのギャランティ等の証明書や箱などの付属品が揃っている方が査定額のアップが期待できます。 宝石やジュエリーにもハイブランドの製品があります。箱やブティックの販売証などがあれば一緒にお持ちいただくことで高評価となります。 また、時計は箱と保証書も一緒にあれば査定額がアップします。購入時の付属品としてベルトの余りコマや取扱説明書などもあれば査定額のアップが期待できます。
一緒にお持ちいただけるとで査定額のアップが期待できるもの。
★ダイヤモンド → グレーディングレポート
★ジュエリー → 鑑別書や鑑定書
★ブランドジュエリー  → 箱や保証書、ブティックの販売証明書
★時計 → 箱、保証書、ベルトの余りコマ、取扱説明書などの付属品

日本刀

日本刀で一番重要なものは「登録証(銃砲刀剣類登録証)」です。 刀と登録証は必ず合っているものです。複数お持ちの方で刀と登録証が混ざってしまいどれがどれか判らなくなった場合はご相談下さい。 また鑑定書がある場合は、必ずお持ちください。査定金額のUPが期待できます。 鑑定書には新旧2種類があります。旧タイプのものは「貴重刀剣」「特別貴重刀剣」「甲種特別貴重刀剣」があり、新タイプのものは「保存刀剣」「特別保存刀剣」「重要刀剣」などがあります。 稀に古い古文書のようなもので極めが書かれた折紙が付属している刀もあります。
必ず一緒にお持ちいただくもの。
★登録証(銃砲刀剣類登録証)
一緒にお持ちいただけるとで査定額のアップが期待できるもの。
★鑑定書・・・貴重刀剣、特別貴重刀剣、甲種特別貴重刀剣、保存刀剣など。
★箱や伝来書、極め折紙、古くからあるものはそのまま一緒に。

ブランド品

ブランド品には「ギャランティカード」という各ブランドが品質を保証している保証書が付属しています。お使いになるなかで紛失されていることがありますが、あれば一緒にお持ちいただくことで査定額のアップが期待できます。また購入時には保存袋や外箱、ブティックの販売証などもありますので付属品として一緒にお持ちいただけると査定額にプラスされます。他にものブランドのノベルティがあれば更に査定額のアップが期待できます。
一緒にお持ちいただけるとで査定額のアップが期待できるもの。
★ギャランティカード
★保存袋や外箱
★ブランドのノベルティグッズ

百貨店でご購入された作家のもの

有名百貨店では人間国宝や文化勲章受賞の作家、その当時に注目されていた作家や人気の高い作家の個展を行っていました。それぞれの作品には専用の木箱が用意され作品名や作家のサインが書かれています。これを「共箱」といいます。共箱は作品を運搬する際の保護にも必要ですし、作家直筆のサインもありますので価値のあるものです。 また、個展ではカタログが発行されていることが多く、もしあれば一緒にお持ちいただくことで査定額のアップが期待できます。
一緒にお持ちいただけるとで査定額のアップが期待できるもの。
★共箱、共布、解説書
★個展のカタログ
★百貨店の領収書や販売証など

買取専門店 くらや 太田店のお客様の声

50代 男性
★★★★★

判りやすい丁寧な説明でした

遺品整理でタンスから出てきた、祖父が集めていた古いお金を査定していただきました。

スタッフの方からは、判り易い丁寧な説明をしていただきました。ありがとうございます。

納得のできる大変気持ちの良い取引が出来ました。

また古いものが出てきたら来店したいと思います。

60代 女性
★★★★★

日本刀が家にあるのは怖いので来ました

昔から家には日本刀があり、家に置いておくのも怖いので査定していただきました。

店員さんは、日本刀の扱いが慣れており安心できました。

また、刀の細かい部分も教えていただき、とても勉強になりました。ありがとうございました。

40代 男性
★★★★☆

母の書道具、捨てなくてよかったです

母が書道の先生をしていた関係で、たくさん書道具があったので見ていただきました。

まさか墨や筆も買取していただけるとは思いませんでした。

捨てなくて良かったです。

また見つかると思うので利用したいと思います。

40代 女性
★★★★★

丁寧な説明に好感が持てました

祖父が中国に住んでいたので、掛け軸や七宝などの買取をして貰いました。

思っていたよりもずっと高い買取金額に驚きました。

スタッフの方も丁寧に説明してくれたので好感が持てました。ありがとうございました。

買取専門店 くらや 太田店のブログ

よくある質問

買取専門店 くらや 太田店のよくある質問

店舗で買取した品物は返品できますか?

買取させて頂いたお品物の返品は、誠に申し訳ございませんがお受けできません。

出張買取のキャンセルをしたいのですがキャンセル料金は掛かりますか?

キャンセル料金は頂いておりません、お気軽にご相談ください。

出張買取の予定を変更できますか?

対応致します。ご連絡を頂ければ予定変更は可能ですのでお気軽にご連絡ください。

出張買取後に買取した品物は返品可能ですか?

出張買取をさせて頂いたお品物はクーリングオフが適応致します。買取日から8日間以内にご連絡を頂ければ返品の対応を致します。

品物が少量でも出張買取にきてもらえますか?

対応致します。お気軽にご相談ください。

品物が多すぎて店舗へ来店できません。出張買取は対応しているの?

対応致します。出張料金は無料ですので、お困りの際はお気軽にご相談ください。

お問い合わせ

買取専門店 くらや 太田店へのお電話でのお問い合わせ

お電話にてお問い合わせくださいますようお願い申し上げます。

営業時間:10:00~18:00

対応エリア

買取専門店 くらや 太田店の出張対応エリア

群馬県太田市(おおたし)、群馬県前橋市(まえばしし)、群馬県伊勢崎市(いせさきし)、群馬県桐生市(きりゅうし)、群馬県みどり市(みどりし)、群馬県館林市(たてばやしし)、群馬県高崎市(たかさきし)、群馬県藤岡市(ふじおかし)、群馬県富岡市(とみおかし)、群馬県安中市(あんなかし)、群馬県沼田市(ぬまたし)、群馬県渋川市(しぶかわし)、群馬県邑楽郡大泉町(おうらぐんおおいずみまち)、群馬県邑楽郡邑楽町(おうらぐんおうらまち)、群馬県邑楽郡千代田町(おうらぐんちよだまち)、群馬県邑楽郡明和町(おうらぐんめいわまち)、群馬県邑楽郡板倉町(おうらぐんいたくらまち)、群馬県佐波郡玉村町(さわぐんたまむらまち)、群馬県甘楽郡甘楽町(かんらぐんかんらまち)、群馬県甘楽郡下仁田町(かんらぐんしもにたまち)、群馬県多野郡神流町(たのぐんかんなまち)、群馬県甘楽郡南牧村(かんらぐんなんもくむら)、群馬県多野郡上野村(たのぐんうえのむら)、群馬県北群馬郡吉岡町(きたぐんまぐんよしおかまち)、群馬県利根郡みなかみ町(とねぐんみなかみまち)、群馬県吾妻郡中之条町(あがつまぐんなかのじょうまち)、群馬県吾妻郡草津町(あがつまぐんくさつまち)、群馬県吾妻郡長野原町(あがつまぐんながのはらまち)、群馬県吾妻郡東吾妻町(あがつまぐんひがしあがつままち)、群馬県北群馬郡榛東村(きたぐんまぐんしんとうむら)、群馬県利根郡片品村(とねぐんかたしなむら)、群馬県利根郡川場村(とねぐんかわばむら)、群馬県利根郡昭和村(とねぐんしょうわむら)、群馬県吾妻郡高山村(あがつまぐんたかやまむら)、群馬県吾妻郡嬬恋村(あがつまぐんつまごいむら)、栃木県足利市(あしかがし)

※出張内容によっては、ご相談させていただく場合もございます。

地域の特徴と歴史

群馬県の特徴と歴史について

群馬県は関東北部に位置し、関東平野を流れる利根川、上毛三山の赤城、榛名、妙義といった山地を有し、周囲を海洋に囲まれた日本で内陸部に位置する数少ない県です。草津・伊香保といった温泉も数多く有します。

県内人口はおよそ197万3115人で、47都道府県中第19位。

郷土の風物・人物を詠んだ〈上毛かるた〉は広く県民に親しまれており、【鶴舞うカタチの群馬県】と詠われています。

古くから絹産業が盛んで女性が養蚕・製糸・織物で家計を支えてきました。夫(男)たちは〈おれのかかあは天下一〉、〈かかあ天下〉と呼び、赤城山から冬場に吹き降ろす乾いた〈空っ風〉とともに上州名物として有名です。

古くから上毛野国、上野国、上州と呼ばれ、東国の要や信越地方と関東を結ぶ要衝の地として歴史を重ねてきました。

古墳時代の大型前方後円墳の数は東日本随一。中世には源氏が西部を支配するようになり、東部は新田氏が勢力を伸ばしました。源平合戦の敗者である平家に味方した一族は没落しますが、源頼朝に味方した東国武士団は鎌倉御家人として源氏に従事することになります。

戦国時代には、上杉・武田・北条などの攻防が行われました。

その後江戸時代初期には、酒井、井伊、榊原の幕府を支える主要大名が前橋、高崎、館林に配置され、北の守りの要衝として発展、江戸との交流も盛んで学問・教育・産業が発達しました。

明治時代に入ると、冨岡製紙場が建設されるなど、県内で生産された大量の輸出生糸が日本の近代化を支えます。

戦時中も軍需産業が集中する工業のさかんな県であり、高崎市・前橋市・桐生市・伊勢崎市などが工業の拠点となりました。

戦後は、自民党から福田赳夫氏、中曽根康弘氏、小渕恵三氏、福田康夫氏の4人の総理大臣を輩出しており、地方の県では山口県と並んで首相の輩出の多い県になっています。

このような歴史背景のもと群馬県は骨董品や美術品との縁も多いのです。

太田市の特徴と歴史について

太田市は、関東地方の北部、群馬県南部(東毛地区)にある人口約22万人の市で、群馬県内では、高崎市、前橋市に続く。

富士重工業(スバル)のお膝元であり、本工場の場所には中島飛行機太田製作所がありました。

1948年(昭和23年)の市制施行当時の区域は旧新田郡です。現在の市域は旧山田郡・新田郡の区域で構成され、人口の増加率は県内でも有数の伸びとなっています。

太田市の地域には、約3万年前の旧石器時代からヒトが住んでいたとされ、岩宿遺跡の発掘調査によって明らかになりました。金山東側の平坦地などでは、多くの集落がつくられたとも史料に記載があります。3世紀前半から7世紀末ごろには合計約1200基もの古墳が確認され、その中には天神山古墳があり東日本最大の規模をもつ巨大古墳として有名です。

江戸時代には、大光院の門前町・日光例幣使街道の宿場町(太田宿)として栄え、それ以前の新田荘の地域も含め現在の太田市の地域を形成しています。

現在の世良田町には、徳川氏発祥の地とされる世良田東照宮や新田荘・新田氏・新田義貞の資料を収蔵する新田荘歴史資料館があり、歴史を今に伝える重要な資料館です。

桐生市の特徴と歴史について

桐生市は、群馬県の南東部にあり、東側は栃木県の足利市に隣接している県境の都市です。市内には、渡良瀬川、桐生川が流れ、西側は赤城山のふもとまで達しています。

東京都内からは車で約2時間、JRや東武鉄道など鉄道なら約1時間40分という、非常にアクセスのよい地域であり、人口も約11万人と県内で5番目に多く、群馬県の主要都市の1つとなっています。

桐生市の歴史は古く、市内からは縄文時代の石器や住居跡が発見されており、特に千網谷戸遺跡から出土した耳飾りは、国の重要文化財に指定されています。

また桐生市も伊勢崎市などと同様、織物産業が盛んな地であり、江戸時代には〈西の西陣、東の桐生〉と呼ばれるほどの織物の一大生産地でした。

その頃の風情ある街並みは、今も天満宮地区や石町でみることができ、この地域は重要伝統建造物保存地区となっています。

近年は、自動車部品などの機械金属産業も盛んです。

観光地としては桐生が丘動物園(入場無料で動物たちを間近で見学できると地元で人気)や、宝徳寺(磨かれた床に紅葉が写り込む〈床もみじ〉が見られる)などが有名です。

みどり市の特徴と歴史について

みどり市は、群馬県の東部に位置し、栃木県日光市に接する市です。北部の足尾山地を源に市を縦断するように渡良瀬川が北東から南東に流れます。

交通の要衝地のみどり市は、東西には国道50号が、南部付近には北関東自動車道の太田藪塚ICを開設。鉄道ではJR東日本の両毛線、東武鉄道の桐生線、上毛電気鉄道の上毛線、わたらせ渓谷鐵道のわたらせ渓谷線を置きます。

みどり市は、古くから開けた地域で、旧石器時代の岩宿遺跡があることでも知られています。これまで「日本列島に旧石器時代に人類はいない」と、されていた学説を覆す大きな発見でした。平安時代末期になると、山田氏が高津戸城を築城し250年間統治します。

南北朝時代では、桐生氏により治められましたが戦国時代には衰退。現在の太田市にある金山城城主の由良成繁に侵攻されました。

その後、由良氏も北条氏の支配下に入り、小田原の役で北条側に付き滅亡。高津戸城は、廃城となっています。

江戸時代になると、足尾銅山の銅を江戸まで運ぶ、銅(あかがね)街道が置かれ花輪宿や大間々宿は宿場町として発展。生糸の集散地でもあったため、多くの絹関係者で賑わいました。

今でも、市内にはかつての人の往来を忍ばせる面影が遺されています。

この地域には、京都から伝わったという鳥海神社で毎年舞われる小中獅子舞は、室町時代から伝承されてきたといわれるお祭りです。大間々町には〈おぎょん〉の名で親しまれる大間々祇園まつりがあり、上州三大祇園祭の一つに数えられています。

平安時代後期から祀られる貴船神社は、古くから水や開運、交通安全の神として信仰され、新年には初詣で20万人前後が訪れる群馬屈指の古社です。

明治16年に設立された旧大間々銀行のコノドント館は、近代洋風銀行建築としてみどり市の重要文化財に指定されています。

また、わたらせ渓谷鐵道が運行するトロッコ列車は、首都圏から日帰りで四季折々の景観を楽しませてくれる観光スポットとして人気です。

伊勢崎市の特徴と歴史について

伊勢崎市は、関東平野の北西側、群馬県の南東部にあり、利根川を挟んで南には埼玉県、そして北には風光明媚な赤城山麓が控えています。また、前橋市、桐生市などに挟まれた、群馬県の主要都市の1つであり、その人口は約21万人(R3年1月)で、県内では4番目となっています。

この地の歴史は古く、古代には茶臼山古墳を代表としたいわゆる力のある豪族が集落を作り、組織化された社会が形成されていました。

そして江戸時代には養蚕が盛んとなり、〈伊勢崎銘仙〉に代表される織物の街として発展してきました。

鉄道では、JR両毛線、東武伊勢崎線が鉄道交通の要衝です。

また、自動車では北関東自動車道が東西に横断しているなど、交通アクセスも良いため、近年では製造業や大規模な商業施設の進出も進み、商業が盛んな産業地域となっています。

地元観光地としては、華蔵寺公園(1985年建設当時世界一巨大な観覧車だった〈ひまわり〉がある)や、田島弥平旧宅(世界遺産の絹産業遺跡群の1つ)などが有名です。

前橋市の特徴と歴史について

前橋市は群馬県中南部にあり、人口約34万人の中核市に指定されている県庁所在地になります。

1892年(明治25年)に市制が始まった当時の区域は旧勢多郡。

現在の市域は、旧勢多郡・群馬郡・佐波郡の区域で構成されています。

前橋は、古くは都と東国を結ぶ街道筋に旅人が集う馬屋があり、その近くに橋があったため、厩橋(うまやばし)と呼ばれ、江戸時代に前橋に改められました。

明治時代には、製糸業にて栄え、戦後は都市計画を進め工場の誘致も推進されました。

県の名峰赤城山麓、市内を流れる利根川、広瀬川の伏流水はその水質の良さで名高く、中心部の水道水にはその地下水が供給されています。

赤城山から冬に吹き下ろす乾いた季節風は「上州のからっ風」と言われ、季節の風物詩ともなっています。

高崎市のの特徴と歴史について

県中南部に位置する高崎市は、人口約37万人と群馬県内では、最大の人口を擁し商業地としても住宅地としても県内の中心となっており、行政の前橋、商業の高崎と言われます。

古くから交通の拠点で、現在の国道17号、18号の中山道と三国街道の分岐点でした。

現在でも、関越自動車道と北関東自動車道の分岐点、上越新幹線と北陸新幹線の分岐点になっており、交通の中心地です。

江戸時代には、高崎藩城下町、中山道の宿場町として栄え、商業が盛んにおこなわれ鍛冶職人や刀の鞘師、金銀細工師のような職人が多数活躍しました。

また、だるまの日本一の生産地や音楽都市の側面も持ち、群馬交響楽団がありオーケストラのある数少ない地方都市でもあります。

群馬県からは政治家も多く、高崎市からは総理大臣が3名輩出されており、自民大国とも言われています。

渋川市の特徴と歴史について

渋川市は群馬県にあり、〈日本のへそ〉と言われている都市です。その理由は2つあり、一つは、日本の主要四島の最北端である北海道宗谷岬と、鹿児島県佐多岬を円で結んだ中心が、ちょうど渋川市にあたること。もう一つは、古の武将である坂上田村麻呂が、東北地方の蝦夷討伐からの帰路、〈へそ〉に似た石を見つけ、〈臍石(ほぞいし)〉と名付けたと言われている石がこの地に伝えられていることがあります。

ちなみに、渋川市では昭和59年から〈へそ祭り〉が行われ、その祭りではへそに絵を書いてパレードを行う催しがあり、渋川市民でなくても参加することができるそうです。

渋川市は、平成18年に伊香保村、小野上村、子持村、赤城村、北橘村と渋川市が合併しています。

また、渋川市はJR上越線、吾妻線、上越自動車道などの交通の要となっており、伊香保市には、年間260万人もの人が訪れる、〈伊香保温泉〉があります。

大泉町の特徴と歴史について

大泉町は、群馬県の東南部にあり、県内でも一番小さな町です。鉄道では東武小泉線が走ります。

外国人の住む人口比率は高く、ブラジルやペルー出身の日系人が多く住む地域。日系ブラジル人と日本人混合のサンバーショーなど、インターナショナルな取り組みが盛ん。

戦時中の大泉町には、零戦を製造した中島飛行機の工場が置かれていました。今では富士重工やパナソニックの工場となり、工業が盛んなエリアです。

他にも多くの大手企業の工場を誘致し、製造品では北関東でも屈指の出荷額を誇る町です。味の素の冷凍食品工場では、事前予約で工場見学が無料楽しめるツアーも行われています。

古の大泉町でも大和朝廷の力が及び、東国の平定により氏族は栄えました。

時代を物語る古墳からは、埴輪や土器、石器や太刀に鏡など数多くの埋蔵物が出土しています。

また、室町時代に築城された小泉城跡は城之内公園として整備され、春には約250本の桜が楽しめる桜まつりが開催され多くの人が来場します。

県道142号線で行われる大泉まつりでは、グリーンロードが歩行者天国となり山車や鼓笛隊が会場を練り歩く賑わいのある夏祭りです。毎年多くの人が訪れます。

また、日本の道100選に選ばれたいずみ緑道は彫刻や噴水を配する、散歩コースとサイクリングコースに分かれる人気の高い道路です。

館林市の特徴と歴史について

館林市は、群馬県の南東部にあり、関東地方のほぼ中央に位置しています。北には渡良瀬川、南には利根川が流れており、豊かな水資源を持つ館林市には、多々良沼、近藤沼など沼が多く、様々な動物や植物の生息地となっています。

市の人口は、約7万2千人(R3年1月)であり、群馬県内で最も東京に近い市でもあります。東京の浅草までは約70kmほどで、東北自動車道や東武鉄道を利用すると、わずか1時間で都心へ行くことができます。

また、市の歴史は古く、約1万年以上前からこの地では人が暮らしていた形跡があり、縄文時代の土器も複数見つかっています。

そして江戸時代には、徳川家と関わりの深い人物が大名を務めるなど、政治的にも重要な地域として扱われてきました。

明治時代には、東武鉄道が開通することにより、経済的にも発展を遂げ、現在に至っています。

観光地としては、茂林寺(ぶんぶく茶釜の舞台として有名)や多々良沼(白鳥の飛来地)などが人気のエリアとなっています。

足利市の特徴と歴史について

足利市は、栃木県南西部に位置。市の中央には渡良瀬川が流れ、45%を森林に囲まれた緑豊かな地域です。

JR東日本の両毛線や東武鉄道の伊勢崎線が通り、北関東自動車道の足利ICを置きます。国道50号から足利ICまでの国道293号線付近には、大型ショッピングモールのアシコタウンあしかが店やアピタ足利店など複数の商業施設を誘致し市街地として発展してきました。

観光地が多いことでも知られる足利市は、春に咲くあしかがフラワーパークの藤棚は、メディアにも度々取り上げられる話題のスポットです。

伊万里・鍋島を収蔵する粟田美術館は陶磁美術館として世界最大級を誇ります。

1300年の歴史がある足利織姫神社は、機織と織女を司る二柱を守護神として祀り、縁結びの神社としても多くの参拝客で賑わいます。

足利氏ゆかりの地としても知られ、市民からは大日様と呼ばれる国宝の鑁阿寺をはじめ、樺崎寺や浄因寺、大岩毘沙門天など数多くの神社仏閣の史跡を残します。

また、古くから地域との交流は盛んだった足利市は、藤本観音山古墳をはじめ、複数の古墳が点在。律令制が進められた頃には、足利郡に京都と奥州を結ぶ古道東山道が通り、駅屋(うまや)が置かれる要衝地でした。やがて平安時代になると源義家が足利を領地とする一方で、藤姓足利氏も領地とし足利城を築城します。

その後両者は領有権を争い、勝敗は源平合戦で決定。鎌倉幕府創設に貢献し、源氏筋であり源頼朝の妻の妹を娶った足利義兼は、足利の中心地に館を構え街づくりを進めました。

その後、足利尊氏が室町幕府を開き将軍となっています。また、足利学校は、室町時代に足利氏の重臣であった上杉憲実が再興に尽力しました。日本で最も大きく有名な学校としてフランシスコ・ザビエルにより紹介されています。

室町時代に足利荘を長尾氏が統治。戦国大名となった長尾氏は足利城を本城にし、山城も多く残しました。

近世になると日光例幣使街道され、舟運の河岸も造られました。

宝永以降は、戸田氏が足利藩を支配します。

活発な経済活動と文化交流が行われ、幕末から明治には織物産業が発展。

昭和初期にかけて足利銘仙は人気を博し、織物産業の発展を背景に足利市の都市整備は進みました。

昭和40年以降は、繊維産業は減少し、新しい製造分野が広がっています。