高島北海(たかしまほっかい)は1850年に、長門国(現在の山口県)で生まれました。父は藩医でしたが、幼い高島北海に絵を教え、この影響もあって画家に興味を持ったと言われています。藩校の明倫館で学んだのちは明治政府の工部省に就職。20代前半の約4年間は鉱山学校にてフランス人技師であったジャン=フランソワ・コワニェから地質や植物、またフランス語を学ぶなどし、国内でははじめて、山口県の地質に注目した書籍を出版しました。内務省や農商務省にも在籍したのちには、ヨーロッパ各地へ現地の森林視察を目的として訪問し、フランスのナンシー水利林業学校にて植物地誌学を研究しています。在学中に植物や風景を描いた作品を残したほか、1886年に開催されたフランスの美術展で日本画を出品。ここで絶賛され、帰国後は行政に関わりながらも独学で山水画を学び、日本美術協会展で銀杯を獲得しました。
その後、40代後半の頃には公職から退き、制作活動に没頭。まもなく1902年に下関から上京すると、自身の号を北海と称し、本格的に画壇で活躍するようになります。作品は日本の他アメリカ、中国など旅先の風景を写生した山水画が多く見られ、日本美術協会展のほか画論や画集の出版、文展の審査員までをも務めました。
後年は故郷で画家の傍ら美術教師なども兼任し、1931年、80歳で息を引き取っています。
高島北海はこのように地質学や植物学としても十二分な経験の上に基づいた、中国山水画がベースにある南画に写生表現を入れた、爽やかな様子の山岳風景画を描いた所に特徴があります。
なお高島北海は「本物以上の山岳風景画を描く為には、本物を綿密に知らなければならない」と言った趣旨の言葉を残しており、実際に徹底的な観察意識があるのです。
上で書いているように高島北海は画家としてだけではなく、地形に関わる仕事でも大いに活躍しています。
日本で初めての地質図(地質構造や中の岩石の様子)である『山口縣地質分色圖』と説明のための『山口縣地質圖説』を描いた所。
また他地域の地質や山林について調査していたり、明倫館時代に知り合った、のちに軍人となった山根武亮と共に景観地を渡り歩いたのをきっかけに、各地の紹介や私財を投じたりもして保護にも携わるようになりました。
他にはリモージュ国立学校を立ち上げる際に、自身の水墨画を贈呈している事。
アール・ヌーヴォーの巨匠と呼ばれるエミール・ガレに多大な影響を与えている点で、1888年に日本人初のフランス教育功労章を授かっています
代表作
作品に画冊の『北海山水百種』や著作として『写山要訣』などがあります。
■ジャン・フランシスク・コワニエ
鉱山師であり、他国に負けない日本をと躍起になっていた明治維新政府が、閉山していた現在の兵庫県にある生野鉱山を再び開く目的で1866年に招きました。
帝国主任鉱山技師として採掘の際に火薬を提案したり、鉱山調査をするなど日本に貢献しています。
■エミール・ガレ
1846年にフランスのナンシーにて生まれ、実家の手伝いからキャリアを積み、ガラスや陶芸や家具作品を発表するようになりました。
元々、芸術分野に高い関心を持っていた高島北海と知り合い、エミール・ガレもまた高島北海と交流を持つと同時に日本の芸術に強い衝撃を受けたことも背景に作り上げた、植物の曲線をあしらった作品から、アール・ヌーヴォーの代表的人物として活躍していきます。