品川弥二郎(しながわやじろう)は1843年9月に山口県で生まれました。歩兵である足軽の家の生まれであるものの、10代半ば頃から吉田松陰の開く松下村塾にて教えを受け始めます。しかし、翌年に吉田松陰が死刑となると、品川弥二郎はこれをきっかけに高杉晋作などと共に尊皇攘夷運動に加わりました。1863年には、英国公使館焼討や翌年の禁門の変にも参加。のちの戊辰戦争の最中には御楯隊を率いるなど、かなり積極的に活動していきます。
やがて明治維新が行われると、戦争の査察などを目的としてヨーロッパに訪問。現地では普仏戦争を目の当たりにしたほか、農政や協同組合について深く学びました。こうして帰国後には農商務大輔や枢密顧問官といった要職を歴任していきます。1891年には内務大臣ともなりますが翌年に反対党派の選挙活動に邪魔立てをしたと言う事で辞任。とは言え同年には当時枢密顧問官を勤めていた西郷従道(さいごうじゅうどう)を会頭として、自身は副会頭とした国民協会を立ち上げるなどしました。
そして1900年、58歳で息を引き取っています。
品川弥二郎は1882年に農商務大輔として務めたり、大日本農会を立ち上げたりして主に農林の分野で産業支援を行ったところにまず特徴があります。なお富裕層ではない人達のための金融機関を立ち上げるなどして「殖産興業の神」とも呼ばれています。
そのほか前述のように尊王攘夷運動に加わったり、吉田松陰の教えを大切にし、京都にて尊攘堂を設けて京都大学に与えています。また、学校法人獨協学園として現在も運営されている獨逸学協会学校。旧制の京華中学校なども立ち上げました。
ちなみに獨逸学協会学校は、ドイツの文化を学ぶために1881年に立ち上げた獨逸学協会が始まりであり、京華とは東京において華やかな存在になってほしいと言う願いが込められているそうです。
1981年から個人から国立国会図書館へ、日記や農商務省や御料局長時などの書簡が譲渡されています。
他の代表作
自ら作詞した「宮さん宮さん」のフレーズで有名な、新政府の為の軍歌『都風流トコトンヤレぶし』の歌詞が国立国会図書館が所蔵されています。
■吉田松陰
1830年生まれの長州藩士です。父は萩藩士であるものの吉田家の養子となり、またペリー来航の際には侵入を試みるものの失敗。幽閉から解かれた後は萩にて松下村塾を立ち上げ、品川弥二郎や高杉晋作、伊藤博文などを育てています。
日米修好通商条約に対して否定的であったため、安政の大獄にて処刑となりました。
■高杉晋作
1839年に生まれた長州藩士で、父も長州藩の役人です。ペリー来航をきっかけに日本への危機を思い、また長州藩に入り奇兵隊も立ち上げています。
とは言え幕府を打ち倒す主義に代わり、その事がきっかけで品川弥二郎が反抗を示しました。