福田豊四郎(ふくだとよしろう)は、1904年11月に秋田県小坂町で生まれました。実家が薬局屋であったこともあり、当初は医師になることを志し上京したものの、のちに夢を諦め故郷へと帰っています。
しかし、帰郷と同年に京都へと下ると、鹿子木孟郎のもとで絵を教わり始めました。一時は絵の道に進もうとすることを親から反対されていたようですが、10代後半の頃には再び上京して川端龍子に弟子入り。ここで腕を磨き、3年後の1923年開催の日本美術院第9回試作展にて初入選となっています。同年に再び京都に移ると、川端龍子からの薦めで日本画家の土田麦僊からも学び、1924年の帝国美術院展覧会と国画創作協会でも、初入選を獲得しました。
さらに1925年には京都市立絵画専門学校に入学し、確実に画家としての経験と技術を積み重ねていきます。また、昭和期になり1927年には国画創作協会の会友となり次の年には専門学校を卒業。そして再度、川端龍子から学ぶようになりました。
20代半ば頃には青龍社の社友となったものの3年後に離脱。他にも新樹会や新日本画研究会などにも参加し、30歳の頃には新日本画研究会を立ち上げています。ちなみに、同会は数年後、名前を新美術人協会に改めました。その後、第二次世界大戦中は従軍画家として参加しアジア諸国をまわっています。
戦後も、画家としていくつかの美術団体の設立や合流に携わったほか、展覧会に出品した作品が文部省の買い上げとなるなど画家として大いに活躍していきました。そのほか新聞や雑誌に連載された小説の挿絵担当なども務め、50代になった頃には毎日美術賞を獲得。まもなく武蔵野美術大学で教壇に立ち、更新の教育にも尽力しています。
晩年まで制作活動は続け、1970年、65歳で息を引き取りました。
故郷の秋田の風景をテーマに郷土愛の籠った作品表現をしながらも、タッチや色彩の面では新しい事に挑戦しているのが特徴的です。
ロマン主義あふれる作風もその特色の一つで、『海女』や『踊る娘たち』と言ったような女性像も数多く手掛けています。
目まぐるしく複数の美術団体に携わってきたのは「世界性に立脚する日本画の創造」を掲げて、新しい日本画を追い求めた所から来ています。またそれは川端龍子と土田麦僊から学んだ事に起因していると言われており、二人の挑戦的な活動は、福田豊四郎も大いに刺激を受けてきました。
なお戦時中は従軍画家として諸外国を回って戦地の様子を描いたものの、根本的にある郷土愛はそのほかの作品に表れており、強く印象に残るものだと評価されています。なお他にも、雑誌や井上靖や石川達三などの新聞小説の挿絵も手掛けてきました。
代表作
1930年の第11回帝国美術院展覧会で特選となった『早苗曇り』(秋田県立近代美術館が所蔵)。
1948年第1回創造美術展で出した『秋田のマリア』(同じく秋田県立近代美術館が所蔵)。
毎日美術賞を受賞する契機の一つになった1955年第19回新制作展にて出した『滝』などがあります。
■川端龍子
大正時代から昭和に掛けて活躍し、大画面で描く豪快な発想の作品を描き続けました。
日本画については独自に学んでおり、考えが違う美術院と対立し青龍社を設立。その世界観を表現するために個人の美術館まで造るなどして、横山大観や川合玉堂と並んで近代日本画の3巨匠と呼ばれるようになっています。
■土田麦僊
西洋近代美術に強い関心を持つと同時に、古典的な大和絵にも興味を向け、その個性が合わさった、個性的な作品世界を展開しています。
国画創作協会も立ち上げ新しい美術運動を追い求め、また舞妓絵を描くと『舞妓の麦僊』と歓迎され、フランス政府からはレジョン・ドヌール・シュバリエ勲章を授かりました。