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矢野橋村(やのきょうそん)は1890年9月に生まれました。なお叔父として日本画家で『孤琴涓潔』や『荒涼』が知られている矢野鉄山がいます。
画家になる事を考えていた矢野橋村は1907年に大阪に移住。ところが大阪陸軍造幣廠での仕事中、事故で左手首を失ってしまいます。それでも諦めず、南画家の永松春洋から学びながら右手のみで作品制作を行っていき、1914年には文部省美術展覧会に出品した『湖山清暁』が褒章を受章。以降も同展で積極的に作品を発表し、画家としての名声を広めていきました。
その後1919年には、第一回主潮社展として矢野橋村・福岡青嵐第1回個人展覧会などを開き、世間に南画をアピールしていきます。この主潮社は矢野橋村が、大阪の文化の改革と研究を目指して同志たちと立ち上げた団体で、このほか1921年には小室翠雲や三井飯山、河野秋邨などと共に日本南画院を設立するなど、画家としての作品制作以外にも積極的に活動し、自身も含めた日本各地にいる南画家の活躍の場を広めるため尽くしました。
やがて30代になると私立・大阪美術学校を設立し校長になると共に、後進の指導にもあたっています。作品発表も継続的に行っており、1928年の第9回帝国美術院展覧会では『暮色蒼々』が特選を獲得しました。
1946年には太平洋戦争の影響を大きく受けたことで大阪美術学校が閉校となりますが、文部省美術展覧会や帝国美術院展覧会、政府主催の官設美術展においては作品の発表を継続。70代になる頃には『錦楓』で芸術院賞を獲得し、1964年には日本南画院会長となるなど、要職を歴任しています。
そして1965年、74才で息を引き取りました。
矢野橋村は自身の作品と言動で、南画をより広め、南画家の活躍の場を広げていった点に特徴があると言えます。
作品の中でも、1920年発表の『烟江疊嶂』には画面から出てくるような迫力で山水が描かれ、見た人に故郷への思いをそれぞれ問いかけるような内容になっていると評判です。
また画家として以外にも、1942年に大阪日本画家報国会が立ち上がると理事長に推薦されたほか、吉川英治や長谷川伸の小説の挿絵も担当しました。
矢野橋村は事故の影響で右腕のみで作品を手掛けてきた所。南画を広めるために活動し、また大阪の画壇も発展させたと言われているなど、南画家の重鎮として評価を受けています。
代表作
1954年の第10回日本美術展覧会で文部省購入となった『渓潤』。
1965年に第8回日本美術展覧会で遺作として発表された『百丈野狐』などがあります。
■南画
中国が元・明時代に発展した南宗画が、江戸時代中頃から伝わって日本で描かれるようになったものを指します。よく文人画とも言い表されるのですが、文人画は職業画家ではない人が描くものを指すので、画家である矢野橋村の描く作品の場合は、明確には文人画ではありません。
作品は、墨での濃淡やかすれも使った柔和でもあり雄大な雰囲気が特徴です。
中国で描かれる南宗画が現地の風景を描いているように、日本で描かれる南画は日本の風景を描くようにという考えが伝わり、やがて目新しさがなくなってくると西洋画の技法を当て込むなど、南画は時代によって発展していきました。
■日本南画院
現在も活動し日本南画院大作展や日本南画院展などで広く南画をアピールしています。
戦時中や戦後、発表の場が限られていた南画でしたが、この団体が結成されたことで思い思いに表現できるようになりました。
小中学生への水墨画指導や水墨画機関紙日本南画院報を出すなど、現在でもその活動は続いています。
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