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山田方谷は1805年に、備中松山藩(現在の岡山県)で生まれました。生家は油の販売を生業としていた百姓でしたが、5才ほどの幼い頃から、儒学者の丸川松隠に熱心に学んでいます。
14歳の頃には両親を亡くし家業を継ぎながらも、継続して学問に努め、20代になる頃には藩主の板倉勝職から奨学金が与えられ、学問所の利用も許可されるようになりました。また同時期には、その才能が買われ、藩校の教授を任されるほどとなっています。
その後1827年には京都に訪れると、儒学者・寺島白鹿からも教わり知識を深め、帰郷後は藩校有終館の教授を任せられるようになりました。約3年の間、同館で教授としての務めを果たし、20代後半になると今度は江戸にて佐藤一斎から教わり、陽明学や朱子学に大きな影響を受けていきます。
1836年には、故郷に戻り有終館の校長を務めると言ったように、自身が遠方に足を運び、学者を訪ね、知識を吸収し、帰郷し後進の指導に役立てていました。なおそれから間もなく、1838年には有終館の校長を行いながら、家塾の牛麓舎を開校。
こういった功績を認められ藩政にも加わることとなった山田方谷は、1849年に財務大臣に該当する元締役兼吟味役となり、以降も藩政改革を成功させるなど長く活躍していきます。明治維新後から晩年には再び教育の場に戻り、陽明学を教え、そして1877年、73歳で息を引き取りました。
山田方谷は元締役兼吟味役として、備中松山藩が抱えていた多額の借金を返済した点が最もよく語られ、山田方谷を象徴する出来事と言っても良いでしょう。
10万両もの利子付きの負債があったものを7年で返すだけでなく、反対に10万両の貯蓄を作った所は現在も支持され、明治維新後も出仕を求められたと言われています。
また当時藩主であった板倉勝静は、元は板倉家と直接血の繋がりがない若い養子であり、山田方谷は農家の生まれと言う所に周囲には不安が生まれていましたが、山田方谷はその周りに対して、まず自分の考えを納得させる所から始めました。そして謝金返済に限らず後進の指導を行っている所も評価されているのです。
その成果もあり、山田方谷は「備中聖人」とも呼ばれています。
山田方谷による著書も残さてれおり、佐藤一斎塾の塾長時代に発表した『理財論』。
江戸留学から戻った際に政治について考えを記した『擬対策』。
これらはいずれも目先の事や贅沢に囚われない事が、経済的な豊かさにつながると言ったような趣旨を述べています。
他の代表著書
1902年に書いた『師門問弁録』(国立国会図書館が所蔵)や『方谷遺稿』などがあります。
■宋学
中国の宋時代に盛況した儒学です。性理学や理気学とも呼ばれています。
■板倉勝静(いたくらかつきよ)
1823年に生まれた備中松山藩の第7代目藩主です。元々は桑名藩主の息子ですが1842年に板倉勝職の養子となり、1849年に領を引き継ぎました。安政の大獄や戊辰戦争と言う時代の激闘に身を置いています。
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