荒井寛方(あらいかんぽう)は1878年8月に栃木県さくら市で生まれました。父親は南画家として知られており、荒井寛方の生家は提灯や家紋の絵付けを生業としていたと言われています。その後21歳の時に日本画家の水野年方の弟子となり、歴史画や風俗画について学び才能を発揮していくと、次の年には『寛方』の号を授かり、同門の中でも特に優れた絵師の1人として活躍していきました。
まもなく1901年に開かれた第10回日本絵画協会共進会においては、風俗画作品『温和』を発表すると2等を獲得。1902年には雑誌の出版を行っていた国華社へ入社し、そこでは同社が出す古美術雑誌『国華』の為の木製の複写図版に携わっています。
30代手前の頃になると、第1回文部省美術展覧会に出品した『菩提樹下』が入選となり、以降も文部省美術展覧会にて連続受賞。1914年には横山大観らと共に再興日本美術院での活動に参加しました。また同年の再興第一回日本美術院展覧会においては『暮れゆく秋』を出品し、院友ともなっています。やがて1916年には、神奈川県の三渓園にてインド人詩人のラビンドラナート・タゴールと知り合ったのをきっかけにインドに渡り、美術学校で教壇に立ちながら後進を指導。アジャンター石窟群の壁画の模写も行います。
その後40歳で日本に戻ると、仏教をモチーフとした作品展開を多く行うようになり、62歳となる頃には法隆寺金堂壁画の模写を行う際の主任画家として選定されるまでとなりました。
しかし、残念ながら完成まで携わることなく、1945年4月、68歳で息を引き取っています。
荒井寛方は前述のように壁画の模写に数多く関わり、また自身の仏教をテーマにした独自の作品群も日本美術院展覧会で多く展開している所に特徴があり「仏画の寛方」と言う呼ばれも獲得しました。
なおインドの雰囲気が感じられる画家の代表的存在ともなっていますが、1924年とその次の年に中国へ旅をした時に、古くからの日本のものを見てから作風もそれに変わったと言う傾向もあります。
荒井寛方は水野年方門下の四天王の一人とも呼ばれていますが、1899年に水野年方から作家立ちをした所からそのように称されるようになっています。
他には1926年までの間に中国やヨーロッパエリアに渡って、遺跡を見聞きするなど、特に仏教への造詣を深めていきました。
代表作
1915年の日本美術院第2回展にて発表し、同人になるきっかけともなった『乳糜供養』(東京国立博物館が所蔵)。
1927年発表の『玄奘と太宗』(栃木県立美術館が所蔵)などがあります。
■水野年方(みずのとしかた)
1866年の浮世絵師及び日本画家です。月岡芳年と師弟関係であり文芸誌の看板的存在で、また新聞挿絵も手掛け尾形月耕と並び立つと呼ばれています。
横山大観や岡倉天心と共に日本画の革新に挑戦していますが、1908年に生涯を終えました。
■ラビンドラナート・タゴール
1861年生まれで詩のみならず小説や音楽、絵画など数多くの種類の作品などを手掛けています。インド近代を象徴しまたインド国歌も手掛けており、インド国内において知らない人はいないとも言われています。
ノーベル文学賞を受賞した初めてのアジア人で、私立大学も設けました。
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